|
アーカイブ フェロー・早田 秀人 エッセイ「思索の散歩道」 2024/06/17
人生100年時代、グリム童話の「寿命の話」は意味深い
人生100年時代と言われるようになった昨今、グリム童話集の中「寿命の話」に耳を傾け、ひとの生き様を考えてみたいと思います。
「神さまは世界を創られた時、すべての生きものの寿命を決めようとなさいました。最初にロバがやってきます。『神さま、わたしは何年くらい生きればよいでしょうか?』、『30年かな』。神さまがお答えになられました。するとロバは『30年なんて長すぎます。』『神さま、わたしの辛いくらしをお考えください。わたしは朝から晩まで重い荷物を運んでいます。他人がパンを食べられるよう麦の入った大きな袋を水車場まで引きずって行きます。ただもう打たれたり、蹴られたりしながらつぎつぎと働かされます。ですから長い時間の一部をお許しください』。神さまはロバを哀れで18年の命を授けられました。ロバが立ち去ると犬がやってきました。『ロバは30年が長いというが、おまえはそれで満足するだろう』。神さまは犬に向かっておっしゃいました。『30年は思召しでしょうか?わたしがどんなに走らなければならないか、お考えください。わたしの足はそんなに長いこと走るのに堪えられません。吠える声と噛みつく歯をなくしたら、街の片隅をわたり歩き唸っているしかありません』。訴えはもっともと考えられた神さまは犬に12年の寿命をお与えになりました。そのあと、猿がやってきました。『お前は30年生きたいだろう。だって、お前はロバや犬のように働く必要がない。だから、いつも陽気だ』。神さまは猿に向かって念をおされました。すかさず猿は答えました。『ああ、神さま!そう見えてもほんとうは違うのです。天からきびのおかゆがふってきても、わたしはさじを持ってはいません。わたしは、みんなを笑わすためにいつもおかしな真似をしたり、顔をしかめたりするのです。りんごをもらって、かみつくととても酸っぱいのです。ふざけているかげで、わたしはどんなに悲しい思いをしていることでしょう。ですから30年なんて、とてもがまんができません』。めぐみぶかい神さまは猿に10年のいのちを与えられました。
最後に人間があらわれました。人間は気負いこんで訴えます。『健康で元気な一生を。寿命は神さまに決めていただきたい。』『ならば』。と神さまがおっしゃいました。『30年生きなさい。それでじゅうぶんだろう』。
すると人間は叫びました。『30年、なんて短い時間でしょう!自分の家をたてて、自前のかまどに火がもえるようになると、木を植えて、それが花を開き、実を結び、いざくらしを楽しもうとする時になってどうして死ななきゃならないんです!ああ神さま、わたしの寿命を延ばしてください』。『なるほど』。神さまは答えられます。『ならばロバの18年を足してあげよう』。『それでも足りません』。人間は満足しません。『犬の12年もお前にあげよう』。と神さま。『まだまだ少なすぎます』。人間は不服です。『よろしい、猿の10年もお前にやろう。
しかし、それ以上はもらえないぞ』。神さまが伝えると人間は立ち去りますが、満足はしていませんでした。
こうして人間は70年生きることになりました。はじめの30年は人間の年月を過ごします。健康で明るく喜んで仕事に励み生活を楽しみますが、〝光陰矢のごとし〟年月はあっという間に過ぎ去りました。そのあと、ロバの18年が続きます。その間、人間は次々と重荷を背負わされます。人をやしなう麦を運ばなければなりませんが、せっせと働いた報いが打擲の日々でした。それから犬の12年がくると、片隅に横になって唸るばかり。ものを噛み砕く歯はもうありません。その時間が過ぎると猿の10年が待ってますが、その時になると人間は頭が弱ってばかになり、間の抜けたことをやってはこどもたちの笑いものになり下がっていました」。
人生100年時代が「無為徒食」「他人依存の生き様」とならないよう、人間として尊厳とは何かを問い、ひとから敬愛される充実した人生を過ごして行きたものです。
最後に一句。 「この世をば どれ お暇と線香の 烟とともに はいさようなら」(蜀山人)、この句にある覚悟こそ人生の幕引きとして理想的だと思います。
| |
|