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アーカイブ フェロー・早田 秀人 エッセイ「思索の散歩道」 2025/01/17
私たちの究極の願いである「幸せ」とは!? 広辞苑によれば「①めぐりあわせ、機会、天運②なりゆき、始末③『幸せ』と書き幸福、好運、さいわい、また運が向くこと」とあります。「幸せ」は、私たちが幸福であること、感じることの意味合いで日常使われています。
「幸せ」を“幸福であること”と同義に解釈すれば、幸福について様々な研究がなされています。「幸福」に関する著作といえば、ヒルティ、アラン、ラッセルの「幸福論」が「三大幸福論」として有名ですが、スイスの法律家ヒルティの「幸福論」は、聖書からの引用が多く、普遍的なものというよりは宗教的な色彩が濃いものになっており、人生の指標として重んじられている“節制”という要素を「幸福の土台」にしています。
一方、哲学教師だったフランスのアランは、「幸福とは心と体の両面にわたるもので、心が健康にふさわしい動作をすること」と述べ「幸福になるための処方箋は不平不満を言わないこと。不平不満は自分だけではなく、周囲の人にも不幸を招くことになってしまう。不幸とは他所から勝手にやってくるものではなく、自分の態度が呼び寄せてしまうもの。幸福や不幸は自然に降ってくるのではなく、自分が作り出すものだ」と考えました。
加えて、「不幸と感じている人は周囲や環境に原因を求めたがりますが、実は自分からがマイナス思考に陥り、結果として不幸を呼び寄せている」と結論付けています。さらに「われわれが自分を愛する人たちのためにできる最善のことは、自分が幸福になることである」と続けています。つまり、アランは「先ず自分が幸福になるよう努力することで、周りの人に幸福が広がり連鎖していく」と考えたわけです。
イギリスの思想家にして、数学・論理学の世界でも高名なラッセルは「不幸の原因は、競争や退屈、被害妄想などにあり、これを克服し幸福をもたらすものは、情熱的で、いつもワクワクしていること、外界に好奇心というアンテナを張り巡らしていることこそが幸福の源泉である」と考えます。例えば、ラッセルは被害妄想について「確率の理論によれば、特定の社会に住んでいる異なる人びとは、一生の間にほぼ同量の酷い仕打ちを受けるはずである。つまり自分だけが特別酷い目にあっているという考えは間違っている」と論じています。
「三大幸福論」は、いずれも100年以上も前に刊行されたものですが、その指摘は今日でもなお通用すると言って良いでしょう。「幸福」に関する研究は今日もなお世界中で行われています。例えば、国連の研究組織「The UN SDSN(The United Nations Sustainable Development Solution Network(持続可能な開発ソリューション・ネットワーク)」は「世界幸福度報告書」の2023年版を発表しています。日本は国別の幸福度ランキングで、前年よりも順位を上げたものの137カ国中47位でした。因みに、1位は6年連続でフィンランド。トップテンの内、北欧5カ国が7位までに入っています。世界の多くの国が幸福度や個人の幸福感を測定しており、一部の国では幸福度を最大化しようという試みも始まっています。「世界幸福度報告書」によると、日本の順位が低いことの理由として、「人生における選択の自由度」が低いという結果が出ています。
数理経済学・複雑系経済学が専門で京都大学名誉教授の西村和雄さんは、独立行政法人「経済産業研究所(RIETI: The Research Institute of Economy, Trade and Industry) 」の報告書で「これまで人的資本の蓄積という観点から、学校教育で得られた認知能力と家庭教育で培われた非認知能力が、個人の将来や労働市場での生産性に与える影響について分析してきた。今回は新たに、幸福感を決定する変数として自己決定に注目し、2万人の日本人を対象に調査を実施。心理的幸福感と主観的幸福感の両方を測定して比較し、その差が少ないことを確認したうえで厳密な計量分析を行った。その結果、自己決定度の高い人の方が、幸福度が高いということが判明した」としています。なぜ幸福感と自己決定に着目したのかについては「幸福はお金や学歴では買えないといわれます。では、何によって幸福感が得られるのかということについては疑問のままでした。健康や人間関係はもちろん重要ですが、それ以外に所得や学歴と並ぶものがあるとすれば、それは何かと考えました。これは、『幸福はお金や学歴では買えない』と聞いたとき、恐らく誰もが考えることだと思います。ただ、過去の研究に沿って幸福感の研究をするだけでなく、人的資本に関するこれまでの研究プロジェクトの延長線として幸福感を分析したいと思いました。私たちは、子育て型の研究から、自立を促すことが幸福感を高めるという結果を得ていましたので、今度は子育てを通じてではなく直接日本人の成人に幸福感を説明するものとして、自立と対応するような何かを『変数』として入れようと考えました。そこで、自己決定を変数として入れることにしたのです」と説明を付け加えています。西村さんの「幸福自己決定論」は、アランやラッセルの幸福論に通ずるものがあると思います。
ところで、幸福自己決定論に通じる生き方の教訓として、帚木蓬生さんの小説「日御子」に再三登場する教訓「あずみの掟」があります。「あずみ」には、安住、安曇、安潜などの漢字が当てられ、遠い昔に西の方から倭国に渡ってきた人々の子孫で、あずみは「東」の日本語読み「あずま」がなまったものであると言われています。「あずみ」は日本の各地に移り住み、今も全国各地に地名や苗字として残っています。
「あずみ」は古代倭国の時代に代々使釋(通訳)として邪馬台国はじめ倭国の国々の王に仕え、中国古代王朝の漢や魏などとの朝貢外交に欠かせない役割を担ってきました。この「あずみ一族」が古代の何百年にもわたり存続してきた背景には、彼らによって受け継がれてきた4つの「掟」があると、論じています。
人を裏切らない 人を恨まず、戦いを挑まない 良い習慣は才能を超える 休息はいらない、仕事の内容が変わるときに休息がある
「あずみの掟」は、現代社会にも通じ、さらに加えるとしたら「 仕事に停年はない、死ぬ時こそが定年」とも言えるでしょう。
「高齢化社会」では一人ひとりが出来るだけ長く健康で自律的に生きることが大切です。報酬を得て働く仕事もありますが、社会との関わりや奉仕をするなど自分で作る仕事もあります。報酬を得るか得ないかは、それぞれ仕事の性質によって異なるでしょう。
習慣には連続的なものと非連続的なものがありますが、習慣という概念は、時間の流れ、目指した達成度、専門領域の3つの関係性で解釈することができます。現代社会は科学や技術の発展に伴って様々な専門分野に細分化され、ある領域で得られた新しい知識が、新たな領域を生み出すことも少なくありません。目まぐるしく変わる社会の様相に対して、個人がいかに対応していくかを端的に示した「あずみの掟」は、「幸福自己決定論」に通じる当に真理とも言えるでしょう。
「自己決定論」が“正しい”ことの裏付けとして、以下の論考や実例があります。
精神科医の樺沢紫苑さんは、「幸せを感じていても、人と比べはじめた途端に幸福度が下がる」と言っています。さらに「日本の幸福度が低いのは、他者と比べたがる気質も関係しているでしょう。精神医学においても、他者と比較する人は幸せになれないことがわかっています。欧米の人たちは、他人と自分を比較しない。横並びを嫌い、収入、学歴、容姿、ファッションなど、さまざまな要素で他人と違うことを好みます」と主張しています。
一方わが国でも、仕事や収入など、状況に左右されず、自身の生活を振り返り、「幸せ」を掴もうとする若い人たちが増えています。
IT業界から転職し、山梨県南アルプス市に移住した若い夫婦Fさんの〝幸せ〟を紹介します。夫婦ともにシステムエンジニアとしてIT業界の最前線で働き、残業は当たり前、納期が迫れば深夜勤務、休日勤務に追われた毎日を変えようと、以前から興味を抱いていた農業へ転身し、その後の生活を振り返って次ように語っています。
「IT業界で働いていた時には、朝出社すると終電で帰れれば良い方。ほとんどの場合タクシーでの帰宅、徹夜も多かったので、子供たちとは早朝にしか顔を合わすことがでませんでした。一方、農業は基本的には太陽が昇っている間に作業をするので、陽が沈んでいる間は比較的融通が利きます。結果、子どもたちと共に過ごす時間がすごく増えました。農作業は子供たちを遊ばせながらもできるし、簡単なことであれば一緒に作業することも可能です。オン・オフ何れのときにも家族と過ごす時間が増えました。自分たちの生活リズムが変わり家族との過ごし方、仕事への向き合い方が変わりました。以前は小さな生き物には無関心だったのに移住してからは虫にも興味を示すようになりました。自然が近いので、私たちが教えなくても子供たちは学ぶことが沢山あるので、自分で考えて遊ぶようになってきました。私たち大人も逞しくなりました」(山梨県南アルプス市の「定住移住サイト」)と語っています。
氾濫する情報や目まぐるしく変る流行に左右されず、自身で築く人生の中で生きる目標や意義を高めて行くことが「幸せ」の源であると言えるでしょう。
「幸せ」を脳科学の側面から捉えると「幸せ」を感じた時、脳内に分泌され快感をもたらすドーパミンは”幸せホルモン”と言われています。例えば、人に褒められるとドーパミンの分泌を促します。ドーパミンは、脳の側坐核から分泌される神経伝達物質で、オーガスムに達した時に脳内で大量に分泌され、快感を誘発させます。ドーパミンが分泌されると、ポジティブ思考になり、活動が意欲的な傾向になることが分かっています。
脳内ホルモンには、もう一つエンドルフィンという神経伝達物質があります。これが多く体内で作り出されると、人はモルヒネ同様の“多幸感”を抱くことが出来るといわれています。エンドルフィンが関与する現象のひとつに〝ランナーズハイ〟があります。ランナーズハイとは、人が長時間走り続けた時、次第に高揚感を抱くようになる現象を言い、この現象にはエンドルフィンが関与していると考えられています。
また、セロトニンはノルアドレナリンやドーパミンの暴走を抑え、心のバランスを整える作用のある伝達物質で、セロトニンを増やすことにより精神的な安定が得られると言われ、最近ではこのホルモンも幸福物質とか幸せホルモンと呼ばれています。セロトニンは「脳の大脳皮質に働き、起きている時にスッキリした意識にさせる、朝起きる時、体を活動する状態にさせる、痛みの感覚を抑制させる、抗重力筋に働きかける、などさまざまな働きがあります」(東邦大学医療センター・大森病院臨床検査部)。
つまるところ、幸福とは「自分が求めるのではなく、与えることに集中すること」から、精神の主導による脳内ホルモンの内分泌を促す作用との連動によって、人生は充実したものとなり幸福は達成される、と結論できるかと思います。
米国の心理学者アブラハム・マズローは、人間を「自己実現に向かって成長する生き物」と考え、人間の欲求を5つの階層に分けた「欲求5段階説」を提唱しています。5段階説は「生理的欲求」から始まり「安全の欲求」、「社会的欲求」と続き、第4段階で「承認の欲求」、そして第5段階として「自己実現の欲求」を挙げています。
第1の「生理的欲求」とは、人間が生命を維持するために必要とされる〝食欲・睡眠欲・性欲〟などおよそ本能的な欲求を意味し、第2の「安全の欲求」とは、安心して暮らすことへの欲望や事故、災害の発生や病魔におかされた時に発現します。第3の「社会的欲求」とは、自分が社会や集団の中の一員であり、社会からも必要とされる存在でありたい、という欲望を意味します。第4の「承認の欲求」とは、「誰かに認められたい、尊敬されたい」という欲求です。この欲求には「自分自身の評価」と「他者から受ける評価」があり欲求が満たされると自尊心が高まり、否定されると劣等感や無力感に苛まれることになります。自分の欲望が中心だった生活から、他者への使命も果たすのだという考えに転じるところに、希望を中心に据えた生活が営まれるようになります。第5の「自己実現の欲求」とは、すべての欲求が叶えられることを意味します。
2000年代初頭、バブル経済がはじけ日本全体に“沈滞ムード”が漂っていた頃、水前寺清子は「365歩のマーチ」(星野哲夫作詞、米山正夫作曲)を歌い、私たちの心に勇気と希望、共感を呼び起こしました。
「しあわせは 歩いてこないだから歩いて ゆくんだね 一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる 人生は ワン・ツー・パンチ 汗かき べそかき 歩こうよ あなたのつけた 足あとにゃ きれいな花が 咲くでしょう」と続きます。最後に365歩のマーチは「しあわせの隣にいても わからない日もあるんだね 一年365日一歩違いで逃がしても 人生はワン・ツー・パンチ 歩みを止めずに夢見よう 千里の道も一歩から 始まることを信じよう」と歌い人々に勇気を与えました。
また、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍し約500編の詩を残し26歳で自ら命を絶った詩人、金子 みすゞ(本名:金子 テル、1903年〈明治36年〉4月11日 - 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、みずみずしい感性で「幸せ」の神髄ともいえる心温まる素晴らしい詩を何編も遺しています。そのうちの2篇紹介します。
【星とたんぽぽ】 【こだまでしょうか】 青いお空の底深く 「遊ぼうぼう」っていうと 海の小石のそのように 「遊ぼう」っていう 夜がくるまで沈んでる 「馬鹿」っていうと 昼のお星は目に見えぬ 「馬鹿」っていう 見えぬけれどもあるんだよ 「もう遊ばない」っていうと 見えぬものもあるんだよ 「遊ばない」っていう 散っておかれたたんぽぽの そして、あとで 瓦のすきにだぁまって さみしくなって 春のくるまでかくれてる 「ごめんね」っていうと つよいその根は眼にみえぬ 「ごめんね」っていう 見えぬけれどもあるんだよ こだまでしょうか 見えぬものでもあるんだよ いいえ、誰でも
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