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    アーカイブ 主席研究員・櫻井 元 エッセイ 2024/06/04
    たった1度の乾杯--名瀬の居酒屋カウンターで、唐牛健太郎さんと
     久しぶりに唐牛健太郎さん(1937-84)の映像をみた。NHKの「映像の世紀-バタフライエフェクト」。6月3日夜の特集は「安保闘争-燃え盛った政治の季節」だった。
     なかなか信用してもらえないが、1度だけ、唐牛健太郎さんとサシで飲んだことがある。場所は、奄美大島・名瀬(現・奄美市名瀬)の居酒屋。当時(おそらく1982年秋)、私は鹿児島支局の2年生(入社2年目)、唐牛さんは、奄美大島の隣の喜界島にいた。
     鹿児島市内の支局に唐牛さんが現れた時の様子は、よく覚えている。短い髪のおじさんがフラッと1人で入ってきた。ふだん我々を怒鳴りまくっていた支局長に自己紹介をした途端、支局長がはじかれたように直立不動になった。次長(デスク)と2人で、窓際のソファで応対している。私は、何かの原稿を書き上げようと自席で苦しんでいた。ほかに記者がいなかったのかも知れない。
     支局長とデスクが、手招きしている。行ってみると、支局長が「こちら、唐牛健太郎さん」。昔の全学連のえらい人だっけ、と思ったが、とりあえず「初めまして」と名刺を差し出した。衆院選の奄美群島特別区(定数1)では、現職の保岡興治さんと、新人の徳田虎雄さんが熾烈な前哨戦を繰り広げていた。「徳田の応援をしているので、取材に来ることがあったら、連絡してよ」。唐牛さんは、そう言ったが、「むかし全学連、いま徳田」が胸にすとんと落ちなくて……でも、いずれ話を聞いてみよう、と思った。
     当時の手帳やメモが見当たらないので、日時・店名を立証できないが、多分、年長の唐牛さんにおごってもらった、と思う。カウンターで私の左に座った唐牛さんに、聞いた。「喜界島で、何してるんですか」。直球の質問を笑顔で受け流しながら、「これだよ」と黒糖焼酎の4合瓶を手にした。「これだけ持って、一軒一軒訪ねて、飲んでるんよ」
     奄美大島に比べて、喜界島は平べったい。台風などの強風は、島を軽々と飛び越え、塩害をもたらす。でも、中央の政治家は、わざわざ喜界島を訪ねたりしない。黒糖焼酎を酌み交わして、島民の話に耳を傾けていると、自然にこっちの支持者になってくれる。そんな話だったと思う。
     途中、「昔の話を聞きたくないのか。ウチの陣営には、昔、指名手配になったヤツもいるんだけど」。そう聞かれたので、「ああ、昔の話は、みんな聞いてるだろうし、そのうち唐牛さんが本を書くと思うので、僕はいいです。それより、保岡と徳田のどっちが勝つのか、その予想を聞きたい」
     それには答えず、唐牛さんは「お前、愛想がいいので、朝日新聞クビになったら、徳洲会病院の受付でやとってやる」。楽しそうに笑った。
     60年安保闘争の全学連委員長と、駆け出しの記者と。残念ながら、乾杯はその1回きりだった。唐牛さんは、直腸がんがあちこちに転移し、47歳で亡くなった。その後、永田町で徳田さんに取材する機会もあったが、唐牛さんの名前は口にしなかった。
     3日の夕方、雨宿りを兼ねて横浜・センター北の書店に入り、目にとまった『ルディ・ドゥチュケと戦後ドイツ』(井関正久著、発行・共和国、4月25日)を買ったばかりだった。
     敗戦国日本とドイツの学生運動……改めてゆっくり考える時間を持ちたい。



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