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アーカイブ 主席研究員・櫻井 元 エッセイ 2024/12/18
いつ、どこで、何の立ち話をしていたのかも覚えていない。記憶に残るのは、陽の光の中で、風間建治さんがスッと背筋を伸ばし、こちらを向いて問いかけた次の言葉からだ。 「ところで、マキさんとは、どうして親しくなったのですか」 「えっ、マキさんって、田中真紀子さんのことですか」 「そうです」 「………よく分かりませんが、もしかすると、山下元利1さんが亡くなって、田中真紀子さん、直紀さん夫妻が山下邸に到着された時、私が先にご遺体の前に座って、奥さまと話していました。それを見て、驚かれたことはありました。でも、『親しい』というのはおこがましい。田中真紀子さんの分類2によると、私は奴隷だと思います」
風間さんは、大笑いして「自分から奴隷という人を初めて見ましたよ。もっとも、こっちは学生時代から奴隷ですがね」
そうだった。政治部の先輩から「風間さんは田中角栄(元首相)の書生だった」と聞いたことはあった。が、自分から口にされたのは、この時、1回限り。そして、風間さんは、最後に付け加えた。
これも時期は、はっきりしない。ある朝、テレビ朝日の友人から電話があり、「風間さんのおでこにハリー・ポッターのような傷ができている。昨夜、あのあと、どこかにぶつけたようだ。見舞いがてら、ちょっと来てくれませんか」
前夜、同じ私鉄沿線に住むテレビ朝日の社員たちが、風間さんを囲んで焼鳥の美味しい店に集まり、新聞社からは私一人がお邪魔していた。帰り道が同じ方向なので、タクシーでまず風間さんを送ったが、どこでケガをしたのだろう。
風間さんの机に近づき、声をかけた。 「ハリー・ポッターになったそうですね」 (赤い星形の傷ができた額を手で隠しながら)「誰から聞いたのかな」 「ニュースソースは言えません。きのうは家に入られるところまで、見届けたつもりだったのですが」 「あれから着替えて、ウォーキングに出かけようとして、家の前の電柱にぶつかった」 「えっ、門のすぐ前の……。電柱とけんかしたら負けますよ。痛かったでしょ」 「痛いというか……目から火花が出るというのはホントだ、と分かったよ」 「酒気帯びの散歩は危険です。以後、我慢しましょう」 二人とも声が大きいので、まわりはクスクス笑っていた。
2009年、仙台市にあるテレビ朝日系列局の東日本放送(KHB)に出向する前のこと。「報道制作の担当だけは、やりたくない」とわがままを通そうとする私に、同社の社長は「営業担当、編成担当の役員2人が退任する。その両方を兼務する取締役ということで、どうか。役員の数も減らせる」と提案してきた。 「いや、それは無理です」 「実は、風間さんも無理だと言った。なぜだ」 「それは、一種の利益相反というか……前のめりで突っ走ろうとする営業に対し、編成がブレーキをかける場合があります」 「分かっているなら、1人で兼務できるじゃないか。判断も速くなる」 「KHBの規模では、無理だと思いますよ。小さな平成新局ならいざ知らず」 「考えさせてくれ」
同年6月のKHB株主総会で、風間さんは取締役(非常勤)3を退任。私は、やはり営業と編成の担務を兼ねる取締役に選任された。初めての常勤役員だった。
その後、民放連の営業委員会の末席に加えていただいた。テレビ朝日から出ている先輩委員は、風間さん。2009年8月、横浜市にオープンした日産自動車グローバル本社とギャラリーの見学会では、風間さんから手招きされ、「ここから見下ろすとギャラリーの全体像がわかるし、説明もよく聞こえます」と隣に立たせてくれた。
関西の広告主のみなさんとの懇親会では、風間さんに呼ばれて近づくと、「関西の営業で困ったことがあったら、この方に相談しなさい」と重鎮を紹介してくださった。
テレビ朝日のネットワーク局長、取締役経理局長、常務取締役経営戦略室長、専務取締役、BS朝日の代表取締役社長を歴任した風間建治さんは2022年8月21日、帰らぬ人となった。医療機関の近くに転居されたことは、年賀状で分かっていたが、闘病生活が長引いていることに気づくのが遅れた。多くを学び、お世話になったが、何もお返しできなかった。葬儀の受付で、BS朝日の役員から問われた。「ウチの風間と、どういうご関係でしたか」「まあ、いろいろお世話になって……」
風間さんがもし健在だったら12月20日、78歳になる。10歳年上の「テレビの先生」。この小文に目をとめて、「削除しなさい」と言ってくるのは、あの世からだろうか。それとも、田中真紀子さんだろうか。
----------------------- 1 山下元利さん(1921.2.22-1994.3.14)。衆院議員(旧・滋賀全県区)当選10回、防衛庁長官(第1次大平内閣)、自民党税制調査会の副委員長・小委員長を長くつとめた。旧砂防会館にあった田中派事務所「木曜クラブ」を最後まで守った(担当記者名簿には倉重篤郎さんの名前もあった)。 「明日から入院してくる。まあ、検査入院のようなもんだから、心配には及ばんよ」。元利さんから電話を受けてから、何日経ったろうか。訃報を受けた時は、原稿執筆中。隣で待っていた上司が「それは後回しでいいから、すぐお宅へ行きなさい」と指示してくれた。 元利さんは、早朝から各国税制の動向を勉強し、記者の来訪を断った。そのかわり、夜は政治部、経済部の記者を歓待してくれた。消費税導入前など繁忙期には、経済記者、政治記者の順で入れ替え制となり、政治記者の「待合室」には、ビールが出された。経済記者とは緻密な税制の議論を楽しみ、ほろ酔いの政治記者相手には片手(1~5)で分かるやさしい税制教室の趣があった。消費税率3%決定前夜の「政治部タイム」は、朝日新聞政治面のコラム「悼む」(1994年3月15日付)に書いた。「経済部タイム」の模様は、谷定文・時事通信社常務取締役が日本記者クラブの「取材ノート」(2014年7月)に活写されている。
山下元利さんは、第2次鳩山内閣で、大蔵省が起用した鳩山一郎首相秘書官だった。盟友の政務秘書官は若宮小太郎さん(1913-67)。元利さんが各社の政治、経済記者を通して最も信頼したのは、その長男・若宮啓文さん(1948-2016、朝日新聞政治部長、論説主幹、主筆)だった。
3 以前のKHB取締役会。ある役員が、収支均衡を説明するのに、「なんとかパープレイでまとめた」とゴルフ用語を使ったところ、風間さんが顔を赤くして「不謹慎だ」と叱責した、と人づてに聞いた。もっとも、叱られたご本人は、さほど懲りていなかったらしく、単身の住まいを国分町のあのマンションに決めた、と報告する私に「ウチから9番アイアンで届く」と笑顔で語った。 一方、風間さん自身は、移動中の新幹線やバスの窓際で、誰にも邪魔されず、ゴルフ雑誌を開くことをささやかな楽しみとしていた。
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