一般社団法人メディア激動研究所
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    アーカイブ 主席研究員・櫻井 元 エッセイ 2024/12/22
    オスカー・ラフォンテーヌの傷
     「ザールラント州代表事務所から電話がありました。ラフォンテーヌ1さんが会いたいそうです」
     「えっ、どうして」
     「BILDを読んだらしい」
     「あの選挙予想を読んだのか。行ってもいいけど、助手を連れてってもいいの?」
     「1人で来てほしいって。地元の美味しいワインを振る舞うそうです」
     「サシじゃないよね」
     「BILDに書いた特派員をみんな呼ぶつもりじゃないかな」
     1998年9月27日のドイツ連邦議会(下院)総選挙まで、残り3週間を切っていたかも知れない。きわどい女性の写真が1面に載ることもある大衆紙BILDの編集部の求めで、下手な作文をした(うえで助手が整えた)のか、電話取材をむこうがまとめたのか、その記憶も定かでないが、5、6人の外国特派員が選挙の勝敗を予想していた。
     その時点の世論調査で、野党の社会民主党(SPD)の支持率が与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)に3㌽ぐらい差をつけていた(投票1週間前には2㌽差まで追い上げられる)。ドイツの選挙は比例制がベースとなっているので、支持率調査の数字が得票率に直結するはずだと考え、「SPDが勝つだろう。その後の政権の形は、順当にいけば『赤・緑』(SPDと90年連合・緑の党の2会派)連立だが、緑の得票状況によっては、『赤・黒2』大連立、『赤・黄』(自由民主党との)連立もありうる」といったようなことを(詳しくは覚えていないが)顔写真入りで書いた。ほかの人たちは「ルーレットは回してみなければ分からない」などと、若干の「逃げ」を打ちながらも、SPD優勢を予想していた。
     ボンの政府機関近くにある州事務所。広いダイニングテーブルに、ワイングラスが1人2脚ずつ用意されていた。
     「君は隣に座ってくれよ」。ラフォンテ―ヌさんに促され、ここはちょっと荷が重いと思いながら、着席する。開口一番「どうしてすっきりとSPD勝利と書いたのか」と問われた。
     「東京の政治記者経験は、わずか10年しかないが、何度か国政選挙も取材した。その勘なのかも知れません」
     「10年の記者経験って、日本では短いのか」と誰かがつぶやいた。
     BILD紙上のコメントを説明する形で挨拶が一巡したあと、私から質問した。助手がついてこないので、できるだけ単純化し、あらかじめ作文した一言だった。
     「選挙綱領3の標題にもなっているInnovation(刷新)とGerechtigkeit(公正)--どちらか1つをとるなら、どっちですか」
     間髪を入れず「Gerechtigkeitに決まっている」。公正さを損なうような、格差を広げるような刷新・技術革新には与しない。「S」(Sozial:社会の)を戴く伝統のSPD党首であり、左派の指導者らしい答えだと納得した。ラフォンテーヌさんは、分かり切ったことを聞くなよ、という口調だったが、うんうんと頷く私の顔を見て、ニヤッと笑った。
     それより、10日ほど前だったろうか。ハノーファーのニーダーザクセン州首相府に、数社の特派員が招かれ、ゲアハルト・シュレーダー4州首相(総選挙における首相候補)に対する合同の記者会見(日本の政治取材風にいえば、オンレコの記者懇談)が開かれた。そこには助手帯同が許されたので、独日英仏4ヵ国語を操る助手のリナさんが、洗練されたドイツ語で「刷新と公正が並び立たない場合、どちらを優先しますか」と問いかけた。
     四の五の言っていた理屈の部分はまったく覚えていないが、結論は「刷新と公正は両立しうる」だった。
     選挙に臨むSPDの態勢は、ラフォンテ―ヌ党首、シュレーダー首相候補と役割分担が決まっていた。いわばシュレーダーさんは「神輿」。どこかの政界で、「神輿は軽くてパーがいい」と言ったとか、言わないとか5と話題になったが、ドイツの神輿は結構重くて、少しは知恵があった。英労働党のトニー・ブレア首相の”Third Way”(第3の道)がメディアに受けているのを横目で見るや、”Neue Mitte”(新中道)と口にする頻度を高めた。神輿が意思を持ち、担ぎ手と違う方向へと急ぐなら、どこかで右斜め前へ荷崩れするだろう。
     この2人は、いずれ袂を分かつのではないか。予感が頭をもたげた。その輪郭をはっきりさせるため、二の矢の質問を放つと、上機嫌でアルザスのワインを愉しんでいるラフォンテーヌさんの機嫌を損ねるのではないか。そう思いながら、左隣りに目を向けると……。
     あの傷に気がついた。白い首筋の右斜め後ろ、10㌢以上あるだろうか。ワイシャツの襟より少し上に一直線の刃物の傷跡がのぞいている。ワインが進むにつれて、淡いピンクから血の色へ近づこうとしている。
     1990年4月25日、SPD副党首であり、年内に予定される総選挙の首相候補だったラフォンテーヌさんは、ケルン市内を遊説中、精神を病んだ女性に、頸動脈のすぐそばを切りつけられた。重体だと日本にも伝えられ、政治部の先輩が見舞い状を送った、と聞いた。
     事件を機に、首相候補から降りたいと伝えたが、代わりが見つからず、ラフォンテーヌさんが「拙速」と批判し続けたヘルムート・コール6政権のドイツ統一構想は、同年10月に結実。年末の総選挙は、当然のようにSPDの惨敗で終わった。
          ◇
     1998年9月の総選挙は、予想通りSPDが勝利し、緑の党との政権・政策協議7を経て1ヵ月後の10月27日、「赤・緑」連立の第1次シュレーダー政権が発足8 。ラフォンテーヌ党首は、財務相に就任した。
     選挙から半年後の1999年3月11日、ラフォンテーヌ財務相は閣僚を辞任、党首も辞任(党籍は維持)、連邦議会議員も辞職する(承認は3月16日付)――と速報が流れた。閣内から不協和音は聞こえていたが、秋に待ち構える「ベルリンの壁崩壊10周年」の準備に気をとられ、内政への目配りができていなかった。しかし、閣僚辞任だけでなく、党の役職や議員ポストまで捨てるのは、どういうことか。日本の国会議員なら、閣僚を辞任し、さらに党籍を離脱することはあっても、不逮捕特権があり、本会議や委員会をサボっても歳費がもらえる議員の座にはしがみつく。「記者会見はしないのか」「本人と連絡はとれないのか」。助手たちが手を尽くしても、ラフォンテーヌさん周辺は「会見しない。電話に出られない」と繰り返した。
     「ドイツの左の地図」を描きかえる物語の始まりかも知れない。胸騒ぎを覚えつつ、どこか納得できないままの原稿に、力がなかったのだろう。アジアが専門という当番デスクは、一言でボツにした。「ドイツの政局なんか、誰も興味がない」
     その後、ラフォンテーヌさんは、著書の中で辞任に至る軋轢をたどり、原因の一つには、ケルンで女性に刺され、生死をさまよった事件の「心身の傷」もあった、と打ち明けた。
     本のタイトルは、”Das Herz schlägt links”(心臓は左で鼓動する)という。
          ◇
     6年後の2005年5月、オスカー・ラフォンテーヌさんはSPDを離党。新自由主義的な色彩を帯びるシュレーダー路線に反発して、先に党を離れた左派グループ「WASG」9(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)に合流した。その後、旧東独のドイツ社会主義統一党(SED)の流れをくむ民主社会主義党(PDS)との連携を強め、2007年6月、”Die Linke”10(左)を設立、共同代表に就任した。
     ラフォンテーヌさんは2005年9月、連邦議会議員に復活。前立腺がんの手術を受けることを公表するなど、健康を害したこともあってか2010年2月、議員を辞職。ザールラントの地方政治家に戻ったらしい。
     25年前の「3.11」以来、演説では少しピッチの上がるラフォンテーヌさんの声を、聴いたこともない。
    オスカー・ラフォンテーヌ著:”Das Herz schlägt links”(Econ Verlag、1999年)
    1998年連邦議会議員選挙に向けたSPD選挙綱領『労働、刷新、公正』
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    1 Oskar Lafontaine(1943.9.16―):名前で分かるようにフランス系ドイツ人。父は戦死。奨学金を得て、ボン大学、ザールブリュッケン大学で物理学を専攻。1966年SPD入党。ザールラント州議会議員(1970-75年)、ザールブリュッケン副市長、市長(76―85年)、州首相(85―98年)をつとめる。1994年の連邦議会議員選挙で当選するも、州首相にとどまった。95年のマンハイム党大会では、続投を表明する現職党首に対し、異例の対立候補に名乗りを上げ、「下剋上」を果たした。
    2 日本で「黒」といえば、「腹黒い」「黒幕」などとイメージはよくないが、ドイツでは「落ち着き」や「沈思」の印象をまとって、保守系のシンボルカラーとしても使われる。
    3 1998年連邦議会議員選挙に向けたSPD選挙綱領のタイトルは、“Arbeit, Innovation und Gerechtigkeit.”(労働、刷新、公正)だった。選挙綱領において、“DIE NEUE MITTE”(新中道)は、序章の最終節の「小見出し」に過ぎなかった。
    4 Gerhard Schröder(1944.4.7-):父親は独ソ戦で戦死。1963年SPD入党、ゲッティンゲン大学で法学を専攻。1976年弁護士。SPDの青年組織Jusos(Arbeitsgemeischaft der Jungsozialistinnen und Jungsozialisten in der SPD)連邦委員長(1978-80年)。SPDのヘルムート・シュミット政権(Helmut Schmidt:1918-2015年、第5代連邦首相:74-82年)のミサイル配備計画など国防政策に対し、ラフォンテーヌ氏らと同じ左派の立場から批判した。1980年連邦議会議員に初当選。86年ニーダーザクセン州議会議員へ転じ、州首相(90-98年)、第7代連邦首相(98-2005年)。
    5 湾岸戦争の頃、小沢一郎自民党幹事長を担当したが、そのような発言を聴いたことはない。
    6 Helmut Kohl(1930-2017):CDU党首、第6代連邦首相(1982-98年)。ベルリンの壁崩壊以後の激動の中で、巧みに関係諸国の同意を得てドイツ統一を成し遂げ「統一宰相」とも呼ばれた。1998年総選挙で敗れ、首相、党首とも辞任。その後、闇献金疑惑が浮上し、子飼いだったアンゲラ・メルケルさん(第8代連邦首相:2005-21年)の批判も浴びた。首相在任中の訪日は4回。橋本龍太郎首相当時の来日では、「ちょっと寄ってみたい」と銀座のパチンコ店に入り、窮屈そうに椅子に座りながら、弾をはじいてご機嫌な写真が残されている。
    7 ワインをご馳走になったザールラント州の事務所は、財政・金融政策協議の会場となった。最近の国内の「103万円の壁」と似たような課題もあった、と記憶している。単なる野次馬気分で、州事務所前まで出かけてみると、テレビ画面や新聞紙上でよく見かける解説委員、論説委員さんら数人が門の前で「立ち番」をしていて、ジロっとにらまれたので、「すみません」と頭を下げ、回れ右をした。
    8 シュレーダー首相の施政方針演説(Regierungserklärung、11月10日)では、”Neue Mitte”の登場が、序盤の1ヵ所、中盤4ヵ所、終盤1ヵ所と回数を増やした。ただ、最後の一言は、ヴィリー・ブラント元連邦首相(Willy Brandt:1913-92年、第4代首相:1969-74年、SPD党首:1964-87年)の演説の切り取りであり、シュレーダー氏周辺が、なお左派執行部に配慮していることが伺えた。
    9 Arbeit & soziale Gerechtigkeit - Die Wahlalternative(1998年SPD選挙綱領の標題のうち、ArbeitとGerechtigkeitが残っていた)
    10 日本では、“Die Grünen”(緑の人々)が「緑の党」と呼ばれることを踏襲したのか、”Die Linke”(左、左派、左翼)は、「左翼党」「左派党」などと呼ばれるようだ



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