一般社団法人メディア激動研究所
     Media Gekidou Institute
 
ホーム
 
研究所概要
 
研究員
 
論考等
 
アーカイブ
 
連絡先
 
    アーカイブ 研究員・豊田 滋通 歴史 2023/08/21
    メディアの功罪~遺跡報道の現場から
     2023年5月、佐賀県の吉野ケ里遺跡(神埼市・吉野ケ里町)で、「弥生時代後期後半~終末期」とされる石棺墓が見つかり、「邪馬台国時代の首長墓発見か?」と全国的な話題になった。結局、6月までの調査で石棺の中からは何も見つからず、地元の期待は空振りに終わったのだが、行政側による異常なまでのPR攻勢と、それに乗せられたメディアの過熱報道ぶりが後味の悪い結末を残した。吉野ケ里遺跡は、発見当時にも熾烈な報道合戦と過熱報道でメディアが顰蹙を買っており、まさに「歴史は繰り返す」を再演して見せた格好だ。
     発端となった石棺墓が見つかったのは、これまで調査ができなかった旧日吉神社の跡地。神社の移転で行政が跡地を取得し、2022年秋から10年ぶりの発掘調査を続けて来た。調査地は、弥生時代中期の首長墓である「北墳丘墓」に近く、全長600㍍に及ぶ甕棺墓列の延長線上に位置する通称「謎のエリア」(=写真)。隣接地では、過去に36個の貝輪を着けたシャーマン(巫女)の墓とみられる甕棺墓も見つかっており、「吉野ケ里では未発見の弥生時代後期以降の首長墓が見つかるのではないか」と地元の期待が膨らんだ。
    吉野ケ里遺跡「謎のエリア」
     吉野ケ里遺跡は、かつて「邪馬台国の王都か」と騒がれた時期もあったが、このところ邪馬台国畿内説(近畿説)を裏付ける考古学的発見が相次ぎ、一方的に押され気味。特に平成の中盤以降、宮殿や祭殿跡とみられる大型掘立柱建物群などの発見で話題を呼んだ纒向遺跡に考古学界の視線が集中しており、吉野ケ里遺跡の地元では石棺墓発見で「一発逆転」への熱い期待が高まっていた。
     そんな背景もあって、「謎のエリア」で石棺墓が見つかってからは、佐賀県知事までが先頭に立ってメディアへの露出度を高め、積極的なPR攻勢を展開。これに触発されたのか、県の文化財担当職員も「邪馬台国」を意識した記者発表を行った。その典型的な場面が、出土品がまだ何も出ていない段階で、石棺墓の推定築造時期を「弥生時代後期後半~終末期」と発表してしまったこと。考古学の常識から言えば、石棺墓の墓壙内の副葬品(土器や鏡、青銅武器や鉄器など)をもとに築造時期を判断するという手順を踏むが、佐賀県は石棺の石蓋を開ける前に築造時期を発表してしまうという「フライング」を犯した。「弥生時代後期後半~終末期」というのは、女王卑弥呼が生きていた「3世紀中ごろまで」に合致する時期。県の担当職員が「邪馬台国の時代」を相当強く意識していたことがうかがえる。
     さらに石棺の石材に赤色顔料が塗られていたことや、石蓋に×印のような線刻が多数あったことなども根拠にして「有力者の墓」に間違いないというメディアに対する「刷り込み」が行われた。この×印の正体はよく分かっていないが、死者の霊魂を封じ込めるためではないかという解釈が一般的。一方、赤色顔料の塗布については、弥生時代の甕棺墓などにも一般的に見られるもので、「首長級の墓」を示す根拠としては弱すぎる。しかし、異常ともいえる佐賀県のPRが奏功して(?)新聞やテレビ、ネットニュースなど各メディアで「吉野ケ里フィーバー再来か」といった報道が相次いだ。
     結局、今回の石棺墓騒動は、前のめりの行政が描いた期待のシナリオに引きずられてメディアが躍るという醜態をさらす結果になった。その過程で、吉野ケ里遺跡に対する注目度が上がり、古代史や遺跡、埋蔵文化財への関心度が高まったというプラスの側面も確かにあるだろう。しかし、これによって吉野ケ里遺跡の調査に対する信頼度や学術的評価が揺らぐことにでもなったら、まさに本末転倒である。吉野ケ里遺跡は、弥生時代のクニの拠点集落の全貌を明らかにした全国屈指の遺跡であり、「謎のエリア」の調査はまだ始まったばかりである。(2023年8月21日)
    ◇               ◇
    吉野ケ里遺跡発見当時のメディアによる「過熱報道の功罪」について、東京新聞と中日新聞の長期連載『よもやま邪馬台国』(2020年6月~2022年9月・全115回)で書いたことがある。参考までに、冒頭の「プロローグ~教科書を読み直す」と、第106回「吉野ケ里は残った」と題した記事を以下に掲載する。
    プロローグ~教科書を読み直す
    ◆卑弥呼は古墳時代の人?
     本稿の見出しを見て、「卑弥呼(ひみこ)は、弥生時代の人じゃなかったの?」と不審に思った読者も多いだろう。特に昭和生まれの世代には、「卑弥呼は弥生人」というイメージが刷り込まれているのではなかろうか。
     そこで、久しぶりに教科書を引っ張り出して読み直してみることにした。筆者の手元には、1966(昭和41)年発行の「中学社会・歴史的分野」の教科書(日本書籍)がある。
     「古代国家の始まり」の章は、3世紀の日本について「邪馬台国(やまたいこく)は卑弥呼という女王が治め、約30の国々を従えていた」と書く。さらに続けて「このころ、大和(やまと=奈良県)にあった国が強大になり、4~5世紀にほぼ日本を統一した」とする。
     はて、「このころ」とは一体いつごろなのか? 「大和にあった国」とはどんな国か―。次々に、疑問が沸いてくる。87(昭和62)年発行の中学教科書(清水書院)も見てみよう。
     「3世紀の日本では邪馬台(やまたい・やまと)国の女王卑弥呼(ひみこ・ひめこ)が、争っていた30ほどの小国をまとめ魏(ぎ)(筆者注・中国の三国時代の国)と行き来した」。邪馬台と卑弥呼には、ご丁寧に読み仮名が2種類ふってある。ページをめくると「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」の章。「4世紀から7世紀にかけて小山のように土を盛り上げた墓がつくられた。これを古墳という」。
     なるほど、古墳時代は「4世紀から」らしい。すると3世紀の卑弥呼は、やはり「弥生時代の人」だったのか―。
     ところが、現在使われている中学校の教科書(令和2年検定版)を調べてみると、事情がかなり違う。主要7社の教科書が記述する古墳時代の始まりは、「3世紀中ごろ」2、「3世紀後半」4、「三世紀末」1で、「三世紀後半」が最も多い。
     「このバラつきはなぜ?」「教科書がこれでいいの?」とツッコミたくもなるが、いずれにせよ古墳時代は、いつの間にか3世紀に繰り上がってしまったらしい。ということは、「卑弥呼は弥生時代の人」という、かつての「常識」もあやしくなってくる。
     教科書でこんな異変が起こったのは、平成以降の発掘調査で土器や鏡などの編年研究が進み、科学的分析法も導入されて研究者たちの年代観が変化してきたためだ。
     大阪府の池上曽根(いけがみそね)遺跡(和泉市・泉大津市)で見つかった大型掘立柱(ほったてばしら)建物の柱は、96(平成8)年、木材の年輪パターンを分析して実年代を推定する年輪年代法で「紀元前52年の伐採」と判定された。遺物に付着した炭化物の放射性炭素残存率で年代を判定する炭素(C)14年代測定法でも、ほぼ同じ結果が出た。この遺構は、出土土器の判定で「弥生時代中期後半」とされてきたが、これは「紀元50年ごろ」というのが当時の通説。科学分析の結果は、「弥生中期」の実年代を一気に100年近くも遡らせることになった。
     「卑弥呼の墓」説もある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳は、皇族の墓とされる宮内庁管理の陵墓(りょうぼ)のため発掘調査ができない。だが2009(平成21)年、周辺から出土した土器をC14年代測定法で調べたところ「240―260年」の判定が出て、「卑弥呼の死と同時期」と騒がれた。魏志倭人伝を読み解けば、卑弥呼の死は西暦247~248年ごろと推定されるからだ。当然、「邪馬台国九州説」の論者からは猛烈な反論があった。
     箸墓古墳は、完成形になった国内最古の前方後円墳とされる。このため箸墓の築造を「古墳時代の始まり」とする研究者もいる。箸墓を含む纒向(まきむく)遺跡一帯でヤマト王権が誕生し、支配の広がりとともに定型化した前方後円墳が日本列島各地に拡大。その後、ヤマト王権の大王(おおきみ=のちの天皇)の墓は、奈良平野の北部から大阪平野に移り、世界遺産に指定された百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群の巨大古墳を生んだ―というのが、教科書が教えるストーリーである。
     「卑弥呼は弥生時代か、古墳時代か」という問題は、邪馬台国の所在地論争だけでなく、ヤマト王権成立の謎にもつながって行く。
    ◆書き変わる「弥生社会」
     2020(令和2)年春、佐賀市の佐賀県立美術館で「吉野ケ里遺跡 軌跡と未来」と題する史跡指定30周年記念展が開かれた。そのポスターには、こんなコピーがあった。
     「消える運命にあった遺跡が30年後にみせた景色」
     佐賀県神埼市と吉野ケ里町にまたがる吉野ケ里遺跡(=写真)が、一時は消滅の土壇場にあったことは今も語り草である。この遺跡は戦前から知られていたが、工業団地造成計画に伴って大規模な緊急調査が始まったのは昭和60年代だった。
     そして1989(平成元)年2月下旬、遺跡の運命を変える衝撃の日が訪れた。
    吉野ケ里遺跡全景
     全国紙が朝刊で「邪馬台国時代のクニ」「物見やぐら・土塁、倭人伝と対応」などの大見出しとともに、約30㌶にも及ぶ広大な遺跡のカラー写真を1面に掲載。社会面も魏志倭人伝や「卑弥呼」などとの関わりを強調する記事で全国の読者の目をひきつけた。この報道をきっかけに、各メディアは特ダネ合戦に突入し、「邪馬台国が見えてきた!」などと吉野ケ里フィーバーを煽(あお)った。
     遺跡報道が過熱すると、記者たちは「国内初」「教科書を書き変える発見」など、見出しになるネタ探しに血眼になる。まして卑弥呼や邪馬台国論争が絡む注目度の高い遺跡では、誤報スレスレの「危ないネタ」が飛び交うことさえある。
     他方、過熱報道で世間の注目が集まれば、遺跡保存に弾みがつくという想定外の効果もある。吉野ケ里遺跡の場合は、学術的重要度に加え、報道量のすさまじさによる全国的関心の高まりが、行政を動かした側面も否定できない。
     そして吉野ケ里遺跡は、文字通り「教科書を書き変える」ことにもなった。
     昭和のころ、歴史教科書に載っていた弥生遺跡の写真は、静岡市の登呂(とろ)遺跡など大陸から渡来した稲作の始まりを示す集落がほとんどだった。かつては「稲作の開始=弥生時代の始まり」というのが通説だったが、九州北部で縄文時代晩期終末(弥生時代早期ともいう)の水田遺構が相次いで見つかり、弥生時代の定義そのものが揺らいだ。
     現行の中学教科書では、弥生時代が始まった時期についても書き方に変化が出てきた。国立歴史民俗博物館の研究者らによるC14年代測定法による研究成果をもとに、「紀元前10世紀とする説もある」という注釈を付けた教科書が増えてきている。
     さらに、平成に入ってからの教科書は、どれも競って吉野ケ里遺跡の写真を掲載するようになった。外敵を防ぐための環壕(かんごう)や頭部のない戦士を葬った甕棺(かめかん)、銅剣の先端が刺さった人骨などの写真を掲載し、魏志倭人伝が伝える「倭国乱(わこくのらん)」にも言及。「のどかなムラ社会」から「戦うクニグニ」へ…。教科書が語る弥生時代の社会像は、大きく変化して行った。
     そして、吉野ケ里遺跡で見つかった巨大環壕集落や首長を葬った墳丘墓(ふんきゅうぼ)、物見櫓(やぐら)や倉庫群と市(いち)、宮殿や祭殿とみられる大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡などは、弥生時代のクニの拠点集落の姿を鮮やかに蘇らせた。
     その後、国の特別史跡に指定された吉野ケ里遺跡は2001(平成13)年、全国2番目の国営歴史公園として開園。毎年約70万人の来園者でにぎわい、ほとんどの教科書に弥生時代の姿に復元された大環壕集落や巨大祭殿などの写真が掲載されるようになった。
    ◆新たな「本命」の登場
     平成の吉野ケ里フィーバーで、邪馬台国論争では「九州説」が勢いを増し、一時は「勝負あった」かに見えた時期さえあった。ところが、そこへ「待った」をかけて登場したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡。現行教科書では、ヤマト王権誕生との関連で纒向遺跡を取り上げる出版社も出てきている。
     この遺跡の発掘調査は昭和40年代から始まったが、一躍注目されるようになったのは平成の後半から。東西を軸に方位を定めて計画的に建てられた大型掘立柱建物群や「運河」と推定される矢板を打った大溝、祭祀に使われた木製仮面などが次々に見つかり、ヤマト王権の「最古の王都」などと騒がれてきた。今では邪馬台国畿内(近畿)説の「大本命」とされ、発掘報道のたびに新聞紙面には「卑弥呼の時代と同時期」「魏志倭人伝と符合」など、センセーショナルな見出しが飛び交う。
     平成から令和へ、九州から近畿へ…。時代と舞台は移り代わったが、まさに「歴史は繰り返す」のである。(2020年6月9・16日付中日新聞、同16・22日付東京新聞)
    第106回 「吉野ケ里」は残った
     人と同じく、遺跡にも運・不運というものがあるようだ。工業団地の下に埋没する宿命にありながら、全体が保存されて国営歴史公園になった吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市・吉野ケ里町)は、幸運な遺跡の代表格。一方、国内屈指の多重環濠集落である平塚川添(ひらつかかわぞえ)遺跡(福岡県朝倉市)は「悲運」の遺跡ともいえる。この遺跡があるのは、福田台地を囲む小田・平塚遺跡群の周縁部。台地上には中核となる遺跡が眠っており、全体では吉野ケ里をしのぐ規模ともいうが、早くから工場が立地して調査の見通しは立たない。
     しかし、「奇跡の吉野ケ里」も保存整備実現までには、多くの人々の献身と苦労があった。その先駆者の一人が、遺跡の地元に住んでいた元高校教諭の七田(しちだ)忠志さん。大学で考古学を学んだ七田さんは、吉野ケ里を独自に調査して昭和初年から論文を発表し、学界に発信し続けた。その息子の忠昭さん(佐賀城本丸歴史館館長)は、父の跡を継いで考古学の道に進み、佐賀県の技師として22年間、吉野ケ里を掘った。二人は、遺跡とともに生きた「父子鷹(おやこだか)」である。
     そして、忠昭さんと組んでこの遺跡を「全国区」に押し上げたのが「ミスター吉野ケ里」こと高島忠平さん(佐賀女子短大名誉教授)。奈良文化財研究所から佐賀県職員に転出した高島さんは、工業団地造成を前に、吉野ケ里の約30㌶を3年間で調査するという難題に直面した。そこで考えたのは、まず徹底的に遺構の分布調査をし、効率的に掘っていく方法。これが奏功し、早い段階で巨大環壕(注・吉野ケ里は空堀のため壕の字を使う)集落の全体像をつかみながら調査は進んだ。その後、何度も画期が訪れたが、忘れられないのは北墳丘墓の発見。当時の香月熊雄佐賀県知事から、その学術的価値を問われた高島さんは「王の墓だと思います」と即答。これが遺跡の「全面保存」に転換する、知事の決断の決め手になった。
     一方、遺跡保存にメディアが果たした役割もある。環壕の中から物見やぐら跡などの発見が相次いでいた1989(平成元)年2月。弥生考古学の権威で奈良文化財研究所指導部長の佐原真さんが現地を視察。このときの佐原さんの解説が「邪馬台国時代のクニ発見」と大々的に報じられ、報道合戦に火がついた。
     過熱報道には問題もあるが、邪馬台国ブーム再燃で行政を動かした力は大きい。その年11月には、当時の海部俊樹首相が現地を視察し、国営歴史公園建設への道筋をつけた。当時、首相官邸詰め記者として同行していた筆者は、想像を絶する遺跡の広大さに、ただ圧倒されていた。(2022年7月26日付東京新聞・中日新聞)
    (注)東京・中日新聞の連載「よもやま邪馬台国」は、2023年6月20日発刊の書籍『よもやま邪馬台国』(梓書院刊=写真)に所収。
    『よもやま邪馬台国』



アーカイブ 
メディア激動研究所
 水野 泰志
  講演・出演等 
 井坂 公明
  ニュースメディア万華鏡 
 内海 善雄
  Les Essais 
 桜井 元
  論評・エッセイ 
 豊田 滋通
  歴史 
 早田 秀人
  エッセイ「思索の散歩道」 
 水野 泰志
   PRESIDENT online 
   月刊ニューメディア 
   エルネオス 
 井坂 公明
   FACTA online
   メディア展望
 内海 善雄
  先人の知恵・他山の石 
  やぶ睨みネット社会論 
  やぶ睨みネット社会論Ⅱ 
 桜井 元
  秋田朝日放送コラム 
  ほかの寄稿・講演 
 倉重 篤郎
   サンデー毎日 
 豊田 滋通
   西日本新聞社 
 一般社団法人メディア激動研究所
Copyright© 一般社団法人メディア激動研究所 All Rights Reserved