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アーカイブ 先人の知恵・他山の石 IT業界 2022/05/19 内海 善雄
第3回なぜインターネットに舵を切れなかったのか? ①
大学を出て東芝に就職した時、本社は日比谷電電ビルにあった。その時、先輩から聞かされた話は電電公社と通信機メーカーの関係を雄弁に物語っている。「戦前、東芝は軍を優先して逓信省をないがしろにした。逓信省は困って、弱小だった日電に頼った。戦後、軍が消滅し、受注先を失った東芝が、電話ネットワーク建設に国内で最大の建設投資をしていた電電公社と取引をしようともくろんだが、どうしても果たせなかった。少し話が進むと公社の担当者の人事異動が起き、話はこと切れる。本社を電電公社の本社ビルに間借りしたのも、少しでも公社に近づくためだったが、意味がなかった。こうして、日電などいわゆるファミリー企業は公社の潤沢な発注により世界一流通信機メーカーに成長したが、東芝の通信機部門は成長できなかった。」とのことである。
電話交換機は、ステップ・バイ・ステップの機械式から、クロスバー方式、さらに電子交換機へと技術革新した。伝送路は、銅線からマイクロウエーブ、同軸ケーブル、光ファイバーへ、また、回路は真空管からIC、LSI、超LSIへと激しい技術革新があった。これらの技術開発は、電電公社とファミリー企業との共同開発という形をとったが、先端部分は公社の通信研究所が担った。そこには、独占事業で得られる豊富な資金がつぎ込まれた。開発された製品は、公社が大量に買い取ることが約束されているから、メーカーは公社の意向に沿って行動さえすれば事業の成功は約束されていたのである。
大型電子計算機の開発で唯一日本がIBMに対抗することができた理由は、巷では通産省による超LSIの開発や大型電子計算機の開発プロジェクトが成功したからだとされている。当時の金で数百億円の政府資金が投入され、開発のための組合が結成されたことは確かである。しかし、それはごく表面のことであり、実際は、電電公社とファミリー企業による電子交換機の開発により、日本の電算機技術が発展したことはあまり語られない。
電子交換機は、大型電子計算機そのものである。公社の多額の資金と人材を投入してD10という交換機が開発され、大量に導入された。また、DIPS-11 というD10の電子計算機バージョンを、公社は実際に公衆型の計算サービスに使用していた。これら公社とグループ企業で開発された製品を公社が購入したからこそ、日本メーカーは規模で何十倍もの差があったIBMに対抗できたのである。
大型計算機の開発は東芝なども行っていたが、ファミリー企業であるNECや富士通には、到底太刀打ちできるものではなかった。東芝の場合は、GEの技術を導入したが、GEそのものさえもIBMに敵わず、コンピューター開発から撤退した。
公社(後にNTT)とファミリー企業との関係はこのようなものであるから、NTTがIP機器の開発を手がけなければ、ファミリー企業が自らの意思でこの分野に投資することは、簡単ではなかったことが容易に予想できる。
それではなぜNTTのIP化が遅れたのか? いろいろな理由が考えられるが、一番大きいものはネットワーク建設のタイミングではないかと思う。大容量マイクロ波中継方式や大容量同軸ケーブル、電子交換機が次々に実用化されていき、それらの最新技術を活用して公社の2大目標であった積滞解消と即時通話化が、1978年に実現し、日本の電話ネットワークが完成した。もちろんその後の新規需要に応えるため、技術改良やディジタル化などをしながらネットワークの増強を図るため毎年ハイペースの追加投資がおこなわれたが、基本的には建設されたインフラを数十年間維持して償却をすることが電話会社の業務となる。そして、設備施設の償却後は、全く新しいシステムを建設することも可能となるのである。
ITU事務総局長に就任して間もなく開催された1999年のITUの「テレコム」(大展示イベント)は、もっぱら3Gの携帯電話の新技術が注目されたが、交換分野ではIP技術、伝送では光ファイバーの高度化であった。これを見たシリアの通信大臣は、シリアの電話ネットワークの新規投資はすべてIP技術にすると決定したという。まだネットワークが完成してないシリアでは、それが可能だったが、減価償却が終わってない日本では、その時点でのIP化は無理だったのだろう。
IP技術の基本的な理念もNTTがIPに舵を切るのが遅れた大きな原因ではないかと思う。電話ネットワークは、必ず繋がることを基本理念として技術開発や設計が行われる。一方、IPは、安価で便利だが、品質を保証するものではない「ベストエフォート」を基本とする。このベストエフォートを、電話の世界で受け入れるのには革命的な発想の転換を要するのではないだろうか? 2005年頃に、NTTよりNGNなるものが提案された。その概念は必ずしも明確ではなかったが、一言でいうと品質保証のあるIPネットワークというものではなかったかと思う。うがった見方をすれば、品質保証に命を懸けた電話技術者がIP技術を取り入れるための自己欺瞞ではないだろうか。
いくらNTTに依存したファミリーの通信機メーカーといえども、自主的に新規事業を起こすことは自由である。現に、どの企業とも家電など民生品分野に進出している。もし、近未来にIPが世の中を制することが事前に分かっていれば、新規分野としてIPに力を入れることもできたはずである。しかし、ため息をついた会長の会社はそれができなかった。社内には、IPの将来を予測できた人は、会長をはじめ、少なからずいたに違いない。しかし、会社の意思決定にいたるほどはいなかったのだろう。
組織の意思決定は、一部の人が先を読めても、全体のムードがその方向に向かなければ、前例踏襲となりがちである。中には先を読める強いリーダーが社内の反対を押し切って驀進し、武勇伝として語り伝えられるラッキーな事例もあるが、残念ながら日本では例外的だ。
私は、1980年代初めにシンガポールに出張する機会があった。現地の新聞を読むと、中国への投資額が、シンガポール、韓国、台湾、香港が日本をはるかに凌駕している記事があった。当然日本が圧倒的に多いと思っていたから驚いた。それから数年たった後、ようやく日本でもフォータイガーという言葉が盛んに聞かれるようになり、彼らの発展ぶりを認識するようになった。
インドも同じである。1999年の「テレコム」の際、彼らのエネルギーに驚き、確かめるべくインドを公式訪問してその元気さに圧倒された。日本がインドに注目し始め、マスコミにもしばしば報道されるようになったのは、10年も後のことである。
このように日本のマスコミ情報はあまりにも遅く、ピンボケである。しかしながらビジネスマンは日経新聞の情報をよりどころとし、その情報に基づいて社会の動向を認識し、企業の経営判断が行われる。グローバルな視点から見れば、少なくとも数年は世界から遅れているのである。
ITUにおいてIP電話の合意がなされたとき、ジュネーブ在住の日刊紙の記者たちを招いてレクをした。「世界中の電話料金が均一になる革命的な合意だから、ぜひ大きく報道してほしい」と懇切丁寧に説明したが、「こんなものは、東京に取り上げてもらえない」との反応で、日経だけが小さく記事を書いた。それから数年後、日経新聞では毎日IP電話の記事が大きく出るようになり、日本で料金革命が起きた。裏ではシスコなどの海外製品のIP機器が使用されたのである。
KDD(国際電信電話株式会社)は、無借金の超優良企業であった。トヨタをはじめ、異業種から携帯電話に新規参入があった当時、KDD内でも携帯電話への進出の企てがあったそうである。しかし、その考えは採用されなかった。ところが、IP電話の出現により、従来の国際電話は成り立たなくなり、IDO(日本移動通信株式会社)に吸収合併を余儀なくされた。事実上の消滅である。従来の国際電話がIP電話に置き換わってしまうことを経営陣が予測できていたなら、技術陣を新規参入業者に提供することなどせず、自らの携帯電話事業に回し、逆にIDOなどを吸収合併していただろう。
経済がグローバル化した現代、ごく少数の先が読めた人の意見が、どれだけ尊重されるかが企業の命運を制する。これからのトップリーダーの資質として必要不可欠なものは、先の読めた少数の人の意見を謙虚に聴き、自ら確かめる能力ではないだろうか。(次回に続く)
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