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アーカイブ フェロー・早田 秀人 エッセイ「思索の散歩道」 2024/04/22
かつて日本では、ソビエト連邦の最高指導者ゴルバチョフをして「世界で最も成功を成し得た社会主義国家」と揶揄されたことがありました。1970年代前半、日本国民の間に蔓延していた「一億総中流意識」が〝皮肉〟の源流となっていたことは言うまでもありません。
太平洋戦争敗戦後の日本では、農地改革や財閥解体をはじめとするさまざまな経済改革が進められました。その結果、社会に蔓延していた〝格差の元凶〟は、その根元を断たれ、「不平等感」は影を潜めることになりました。
1950年代後半になると「神武景気」が始まり、国民総生産(GDP)は年率9%を超えるなど、世界が驚愕する経済成長を成し遂げています。〝神武〟に続く岩戸景気(1958年7月~1961年12月)を揺るぎないものとするため、池田首相は1960年12月27日「所得倍増政策」を閣議決定し「高度経済成長」の継続を図ります。結果、国民は所謂「三種の神器」(電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビ)を持つという〝夢の実現〟に向かって一歩近づくことになりました。
その後は「いざなぎ景気」を経て、不動産や株式投資に狂奔する〝バブル経済〟に酔いしれますが、バブルの破裂に伴い経済は急速に悪化し、後に〝失われた10年〟と云われる経済の停滞期を迎え、所得格差は以前にも増して拡大し、国民の政治に対する〝怨嗟の声〟が大きくなりました。
2012年12月に発足した第2次安倍内閣は長期間続いた「経済の停滞」を打開するために「3本の矢」(大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略)を中核とする成長戦略、いわゆる〝アベノミクス〟を推し進めました。ところが、政策は狙い通りに進まないばかりか、〝大胆な金融緩和策〟は資産を「持てるもの」と「持たざるもの」との間にあった所得格差をさらに押し広げるという皮肉な結果を招いてしまいました。
イタリアの統計学者コンラッド・ジニは、所得の均等度合いを「ジニ係数」として数値で捉え、消費調査や生活調査のデータに活用することを提唱しています。
ジニ係数は「0から1」までの数値で示し、所得が均等な状態を「0」、所得格差が広がるとともに数値は限りなく「1」に近くなります。数値が0.4を超えると社会不安や騒乱を引き起こす〝警戒値〟とされます。2010年までのOECD加盟先進国におけるジニ係数をみると、アメリカ0.38、英国、イタリアが0.34、日本0.33、カナダ0.32、ドイツ0.30、フランス0.29と続き、スウェーデンは0.26となっていましたが、2019年ではアメリカが0.49、英国0.37と数値は悪化し、両国とも〝警戒水域〟に近づいていることが見て取れます。これに対して、日本は0.33、ドイツとフランスがともに0.29と数値は安定しておりほとんど変化がみられません。一方、グローバルサウスの盟主とされ、その動向に注目が集まっている南アフリカは0.62、ブラジル0.48と数値は警戒値を超えています。世界はジニ係数の数値以上に所得格差の2極化が進んでいるのではないでしょうか。
日本のジニ係数は、アメリカや英国に比べて低い水準にあるとはいえ、数値は高めに推移しており、所得格差が小さい国と言うことはできません。総務省統計局はこうした状況に鑑み「所得格差が広がっている要因」として「非正規雇用者の増加」「税金など社会保障の逆進性(低所得者の負担漸増化)」「製造業の海外移転(生産性の低い非製造業への依存度増加)」そして、「雇用セーフティーネットの未整備(雇用環境の低水準化)」など4項目を上げ、所得格差の是正に努めています。
因みに、ジニ係数0.26(2019年のOECD統計)で、世界で所得格差がもっとも小さいとされるデンマークでは、労働者の失業時や退職時に向けた転職対策など、労働市場を確保するための制度を整えています。
大阪大学人間科学研究科教授吉川徹さんは、格差の是正には「職場や家庭など日常の生活環境の中で、自分の性別、年齢、学歴と比べて最も遠い位置にある人たちのことを知ろうと努める〝たすき掛けの相互理解〟を深めることが求められる」と指摘し、「最も遠い位置にある人」の一例として「若い大卒男性と中高年の非大卒女性」を例示しています。
所得格差を解消するには「産学官金民」(産業界、大学・専門学校、政府・官僚、金融機関、民間団体)が連携して、スタートアップなど成長を促す企業の助成と地方活性化に向けた投資を拡大し、成長にブレーキをかけている規制の撤廃と100年後を見据えた少子化対策、外国人労働力の確保など〝きめ細かい政策〟を策定、掛け声だけでなく速やかに実行することが求められます。
太平洋戦争終了後の食糧難やモノ不足の時代には、男女間の性別格差こそありましたが、所得や教育などの社会格差は、今ほど大きなものではありませんでした。国民の総てが、必死にその日その日を食いつなぎ暮らしていましたが、社会整備や経済回復の本格化に伴って、個人の才能や能力による、所得や教育面での個人差が急速に表面化することになりました。人々が「安定した生活の確保」に躍起となるのは、社会の「混乱期や平穏時」を問わず、いつの世にあっても変わることがありません。人々の持っている性格や能力の違いが各人各様の花を咲かすことがあります。一方、努力が実らず〝失意のどん底〟に身を沈め、憂き目を見ることなどは、何時の世にあっても生じます。私たちの日常生活における努力と態度が積み重なって格差が生じ個人差が生まれます。
アメリカの哲学者として著名なレオ・パスカーリア博士の著作のひとつに「葉っぱのフレディ―いのちの旅」があります。主人公のフレディは最後に「〝いのち〟は土や根や木の中の、目には見えないところで新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は寸分の狂いもなく〝いのち〟を変化させつづけている」ことを悟ります。人間の能力・才能は〝百人百様〟、その総てを一本のレールにおいて判断・評価すれば、個人差が生じるのは揺るぎようのない事実であり、必然です。従って、格差社会は常に進行形や現在完了形で現れるものだと、言えるのではないでしょうか。
格差を所得という〝まな板〟に乗せて考えて見ましょう。日本の職場では昨今、能力の再開発を目指すリスキリングや社員が自ら進んで新しいスキルを身につけるリカレント教育、社会全体に目を向けた生涯教育講座などの制度化が進められています。
また、成長エンジンをフルに回転させるため海外へ向かっていた「投資」を国内に回帰させ、スタートアップ企業への助成、地方活性化に向けた投資拡大、成長の足を引っ張るに規制の撤廃、100年後を見据えた少子化対策、質の高い外国労働力の確保など課題を着実に進めて「活力ある社会」が実現させなければなりません。
少子高齢化が急速に進むわが国では、年金や医療福祉の受益者と、原資の一部を担う現役若年層との年代間格差が広がっています。若者たちの間では、自分が高齢者となった時に、「受けとれる年金の原資」が、「十分に担保されていないのではないか、といった不安」を払拭されることはありません。政治はこの不安を解消するために、高福祉社会を支えている若者層に対して、既得権益の多い高齢者層から、資産を移転しやすくする制度を早急に整備すべきでしょう。
令和3年度に厚生労働省が発表した世代別平均貯蓄額をみると、20代では201万円(平成28年度154万円)、30代が400万円(同404万円)、40代531万円(同652万円)、50代800万円(同1051万円)、60代1400万円(同1339万円)、さらに、70代では1500万円(同1263万年)となっており、貯蓄額のピークは60代から70代に移行しています。
70代以上の高年齢者の貯蓄額が予想以上に多いのは、日本経済が右肩上がり、報酬が年を追うごとに増えていた時に現役であったことに加え、年金の受給開始年齢が高年齢者に有利になっていたことが要因のひとつと考えられます。ただ制度とは別に、多くの高齢者が何時までも健全な心身を維持し、介護や福祉を当てにしない社会が実現することこそが、若年世代層への依存度を下げることにつながります。
フランスの文化人類学者で人口学者でもあるエマニュエル・トッドさんは、ひとりの若者が「支配階級の人たちはただお金を稼ぎたいのだろう」という質問に対して「ごくありふれた庶民たちは、月末に勘定をトントンにして税金を納めて、子どもを育てあげる必要があります。そのために働き、生き延びるという、ある意味シンプルな幸福がそこにあります。精神的な問題はお金持が〝あり過ぎて困っているような人たち〟に表れるのです」と答えています(PHP新書「大分断」)。
若くして夭折した金子みすゞさんは「わたしと小鳥と鈴と、みんな違ってみんないい」
「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のやうにたくさんな唄はしらないよ」
つまるところ、格差とは社会的不平等だと感じる人には格差が意識され、苦労はあっても平穏に生活できる日々を幸せに感じる人たちには意識されない、主観的で属人的なものと言えるのではないでしょうか。
表題の『己を知り、己に克て』は紀元前470年から同399年に古代アテナイで哲学の道を説いたソクラテスが自身の「座右の銘」としていたとも、アテナイ市民に向けた名言とも言われていますが、自分は〝唯一無二〟として誇りに思うことの大切さ説いた教訓と考えることができます。
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