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アーカイブ フェロー・早田 秀人 エッセイ「思索の散歩道」 2024/09/16
思いがけなくも天皇陛下にお目にかかる機会ができた。一生に2度あるかどうかわからないことでもあるし、少し詳しくそのときの様子を書きとめておきたい。しかし、陛下といっしょに過ごした吹上御苑内「花蔭亭」での2時間ほどは、いつもとすこしちがった気分で
あったので、正確に伝えられるかどうかに危惧がある。その上、速記も、録音も、ノートもとらなかったのだから、多分、記憶ちがいやまちがいがあるだろうと思う。前後したり、落したりした話もあるだろう。
陛下はもとよりのこと、同席した徳川夢声、吉川英治、獅子文六、サトウ・ハチローの
諸先輩にも失礼に当る記述があるかも知れない。みなさんの話も言葉どおりではないにちがいない。ひたすらに御寛恕を乞う次第である(以上原文)。
火野葦平著「河童会議」(文藝春秋新社)に収載された「天皇とともに笑った二時間」の前文である。
前口上や釈明は扠措き、そもそも吹上御苑内にある「花蔭亭」に如何に名の知れた文化人といえども天皇陛下に招かれて2時間もの間、下世話に花を咲かせることなどとても想像することができない。疑念を晴ら裏事情について火野葦平は次のように打ち明けている。
あれは3月のたしか25日だったと思うが、東京阿佐ヶ谷の留守宅から九州若松の自宅へ
電話がかかってきた。小堺昭三君の声で、「徳川さんから連絡がありまして、天皇陛下にお目にかかりませんか、その気があれば御返事下さいということでした」。
あまり意外なことなので、びっくりして、「一体どういう会合かね」とただしてみると、
「7、8年前に、辰野隆、サトウ・ハチロー、徳川無声の3氏が、陛下にお目にかかって放談会を催し、大いに陛下が笑われたことがあったでしょう。あれの第二回をやりたいということらしいです。そして、そのメンバーの中に先生を入れたいというお話でした。他のメンバーは、獅子文六、吉川英治、サトウ・ハチロー、徳川夢声という人たちだそうです」。
「それはたいへんありがたい。こまかな様子は今度上京して、夢声さんに逢ってきめるけれども、メンバーの中にぜひ入れておいてもらいたいと返事をしておくように・・・」と私は、
やがて2日ほど経って、侍従の入江相政という人から手紙が来た。十円切手をはったその手紙は、普通の郵便物にまじっていて、なにも格式ばったことはなく、裏を返すと、ペンで
すぐに開いてみると、綺麗なペン字のうまい文章で、「夢声老からお話があったと思いますが、来る4月17日は陛下が非常にお楽しみに遊ばしていらっしゃいますので、是非おいで下さい。当日は1時半、坂下門においでになって、入江に会いに来たといえばわかるようにしてあります。服装は平服で、どうぞ気軽な気持ちでお出かけ下さい」とあり、そしてその最後の便箋に、坂下門を這入ってから放談会のある花蔭亭までの地図が描いてあった。
陛下からのお呼び出しに、こういう普通の手紙が来たということに私はおどろき、また、この入江という侍従の典雅な人柄が、その手紙からにじみ出ているような気がした(火野葦平)
この引用文から垣間みえることは、陛下と侍従のゆるぎない信頼関係であり、天皇陛下の国民に対する優しく繊細な思いやりだと思います。2時間におよぶ放談会は「それではこれから放談会というようなものをはじめます。せんだっては辰野さんに司会をお願いし、ここにいるサトウさんと私と3人で、つまらないお話をいろいろ申し上げたのでございますが、今回はここにおる5人で、また何かのお話を申上げようと存じます。それぞれ一かどの人たちばかりで、いろいろと変わったお話が出るのではないかと存じますので、不肖私が、その司会を致します」という夢声老の前口上で始まり、陛下に対して参加者5人がそれぞれの自己紹介を済ませると、話はいきなり孫の人数に。それぞれ自分たちの孫の数を披露するが中で獅子文六さんが「私のところ1人半」と言ったのを受けて陛下ははじめて含み笑いのような「クックックッ」というような声をたてられた。すかさず夢声老「ハハァ、お一人はおなかの中ですな」。ついで夢声老「陛下はお孫さんがお幾人でございましたかね」と尋ねると、すぐ陛下は「私は6人」とハッキリおっしゃった。実際には陛下のお孫さんは5人とされていたから訝しんだものの、鷹司家の死産されたお孫さんも加えられてのご返事か、と思い当たるところがあった。こうしたお言葉の中にも陛下の優しいお心配りとお人柄が感じられる、ということだろう。
その後、“放談”は「うなぎの産卵場から、その生態」にまでおよび、火野葦平が「ウナギは人間にくらべてたいへん潔癖で、高尚で、文化的であると思います。人間のようにどこでも生みちらさない」というと陛下も腰を浮かせてお笑いになったという。話題は皇太子殿下の野球観戦、水泳の泳法(陛下は小堀流とのこと)、河童の戦いなど古今東西、談論風発しその度に陛下も大笑いされたようである。
放談が河童の話から源平合戦に敗れた平家の落人“その後”の生き様およぶと火野葦平から“悲しくもおかしい”2つの逸話が披露されているので原文のまま紹介しようと思います。
「そう聞けば、思い出す話があります。私の母親の実家は、広島の山奥なのですが、私が母の郷里に行ったときに、母の先祖の墓石の上に、平家の落武者の紋章のようなものが残っていたりして、私は平家の末裔の子孫かもわからないのです。これは母の話ですけれども、近くに帝釈峡という絶景がありまして、その絶景の奥に平家部落があるという昔からのいい伝えがあった。帝釈峡は辺鄙なところにあるので、あまり人が行きませんが、有名になっているどんな渓谷よりすばらしい渓谷だと私は思っています。その奥に平家が逃げこんだといわれておりました。明治になって国勢調査がはじまったときに、やはりそれを調べに行かなければならないというので出かけたらしいんです。山また山を分け入って、ジャングルの中に入って行くと、むこうから変な男が出て来て、こちらの様子を伺っていたそうですが、危害を加えないと知るとあらわれて、『もう源氏は滅びたか』ときいたそうです」。といったところ、まるで爆発したように、一座が笑いだした。陛下などは声をたてて、椅子の上ではねあがるようにしておられた。
「ああ、それからもう一つ思い出しました。椎葉の有名な平家の部落は、鶴富姫と那須の大八のロマンスがあるところですが、これがあの大きな椎葉ダムのために、水底に一部沈んだんです。すると、どこでもこのごろダムの底に沈む部落の問題は同じですが、補償問題が起こり、反対運動が起こった。その椎葉の一部沈んだ平家部落の中にも、反対運動があったので、共産党が出かけて行きまして、『同志よ、君たちも赤旗、自分たちも赤旗、一つ赤旗同士で大いにやろうじゃないか』といったそうです」。
やがて、陽がだんだん西に傾いて、総ガラスの窓から、太陽が陛下に直射した。侍従が経って、カーテンをしめようとしたが、古ぼけているのか、錆びついているのか、カーテンが
陛下のところまで行かない。太陽の光線にあてられ通しだったが、陛下は少しも陽の方をふりむかなかった。
時間をはかっていた夢声さんが、「どうやら、2時間ほど経ったようであります。この前も2時間くらいでございましたし、陛下もお疲れの御様子にお見受けしますから、この辺で終わることにいたしましょう」といった。
4月19日の朝、阿佐ヶ谷鈍魚庵に書留速達が来た。皇居からなので開いてみると、「相模湾産後鰓類図譜補遺」という本であった。これは私が放談会の席で、『陛下の本は2冊出た後、後は出なかったのですか』ときいた時、侍従から、出ているけれども、市販になっていないと聞かされたので、ぜひ欲しいと希望しておいたものである。三谷隆信という侍従長の名前が入っていた。それには、「相模湾産後鰓類図譜補選 壱部 右思召を以て賜わりますから、この旨申し進めます」という文章が書いてあった。
その後、入江相政侍従から手紙があり、「あなたが生物学御研究所を見学したい旨、陛下に申しあげたところ、いつでもくるようにということですから、お電話ででもおいでになる日を連絡してください」という意味が認めてあった。そして、それについてのいろいろな指示がこまごまと書いてあり、私はこの侍従の人柄に惚れた。最近、入江さんの著書「侍従とパイプ」を夜も、その清らかさと美しさに打たれ、書評を書いたりしたが、こういう侍従が陛下の側近にいることをうれしく思った。むろん、他にもよい侍従がいるだろうが、私はすぐにお礼の返事を出したが、その終わりに、「陛下へなにとぞよろしく」と書き加えた。しかし、まだ、生物学御研究所へは行っていない。涼しくなってからでも出かけたいと考えている。(昭和32年8月15日記)
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