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    アーカイブ フェロー・早田 秀人 エッセイ「思索の散歩道」 2025/03/10
    エッセイ「思索の散歩道」
    〝翻訳〟の妙と溝~「一般教書」って何だ?
     鎖国により特定の貿易国を除いて、海外からの文化や思想、学問などの移入を遮断していた江戸末期、4隻の軍艦を率いたペリーの突然の来航をきっかけにアメリカの軍事力の脅威にさらされ開国に大きく舵をきり、初めて国として外国との交渉のテーブルに着かざるを得なくなりました。度重なる外交交渉の結果、1854年に日米和親条約が締結されましたが、条文の?誤訳〟が開国に至らしめたことは有名です。
     この条約は最初に第一草案としてオランダ語で書かれたものが和訳され、それが漢文に翻訳され、その漢文を元に和訳の最終版が作成されるという、3段階の翻訳を経て作成されました。この間に誤訳が生じることは想像に難くありません。和訳の草案にあった「18カ月後、どちらかが必要と見なせば領事館を設置できる」という内容が、「やむない事情が発生し、日米両国が必要と認めた際、領事館を設置する」に〝誤訳〟されたため、江戸幕府は「アメリカは幕府が認めなければ領事館を開設できない」という認識で条約に署名し、開国を先延ばしにしようと試みました。しかし、アメリカ政府はこの条文を盾に主張を譲らず、軍事力を誇示し開国を迫り、下田の開港と領事館の開設を幕府に承諾させることに成功しました。もし幕府が頑なに領事館の開設を拒み続けていたら、強大な軍事力により開国を迫られ植民地化の道を歩んだかもしれません。
     同じ時期、中国では、英仏両国の連合艦隊が広東に侵攻して第二次対中国戦争が勃発しています。このいきさつには後日談があり、真偽のほどは不明ですが平和的な開国を望んでいた通訳頭・森山栄之助が“意図的”に誤訳したとも伝えられています。さらに、鎖国により故郷への帰還は困難を極め、幕府の鎖国政策の不合理を肌で感じていた中浜万次郎が一枚加わっていたと想像すると、あながち伝聞ではなく真実だったかもしれません。
     中浜万次郎は幕末から明治維新にかけて、表舞台には登場しないものの、外交交渉はじめ民主主義や外国での生活・考え方、英語教育など、当時の日本に最も必要とされた先進分野で多大な功績を残しています。
     万次郎は、1827年現在の土佐清水市中浜に漁師の子として生まれましたが14歳の時、出漁中に時化に遭遇し南太平洋の孤島・鳥島に漂着した後、約半年間におよぶ過酷な無人島生活を強いられていましたが、偶然にもアメリカの捕鯨船John Howland号に救出されハワイから南洋を航海した後、船長William Whitfieldの故郷マサチューセッツ州フェアヘーブンに帰港、そこで、ジョン万次郎ジョン・マンとして英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学びます。その後10年あまりの間、幾多の航海やアメリカ生活を経験するなどの苦労を重ねた末、当時の琉球王国を経て帰国しました。万次郎は、帰国後アメリカ生活で得た専門知識、技術、経験を必要とした幕府に直参として登用され、万次郎として軍艦操練所の教官、東京大学の前身でもある開成学校で教鞭をとり、福沢諭吉、榎本武揚、西周、大鳥圭介など明治期に活躍した人物に影響を与えました。その中の一人に坂本龍馬がいたことも興味深いエピソードです。
     日米和親条約を締結する際、万次郎がアメリカ側に好意的な計らいをするという疑いをかけられたため、正式な通詞ではなく隣室で通訳のサポートをしたと言われています。万次郎がペリーとの交渉の場で、直接通訳を務めたとしたら歴史は変わっていたかもしれません。
     幕末から明治維新にかけて堰を切るように西洋の文化、科学、学問などが流入し、日本の政治、特に軍事・外交をはじめ市民の生活にまで大きな影響を及ぼしました。日本語になかった西洋の物品や概念を表現するために、日本語として適切な単語を重ねるのが難しく、万次郎の影響を受け、近代日本の思想に多大な影響を与えた福沢諭吉や西周らは翻訳を通して多数の“和製漢語”を考え出しました。翻訳という概念はこの時代に生まれたと言っても過言ではありません。
     例えば、福澤諭吉は、明治7年に出版した、会議運営に関する英文翻訳「会議弁」の中で、「speech 」、「debate」の訳語として考案したのが「演説」、「討論」です。また、慶応4年に出版された「西洋事情外編」では「society」の訳語として「人間交際」という言葉が用いられています。この「交際」は、現代の「社会」と概念とは違い狭い範囲の人間関係を指す言葉ですが、「社会」に近い広い範囲を含む人間関係の意味を持たせようと苦心したと言われています。また、私たちが日常使っている「economy」を「世を經(おさ)め、民をすくう」と解釈し「経世済民」となり、略して「経済」になったとは、識る人ぞ知る事例の一つです。
     明治時代の知識人たちは、様々な造語を作り出したり、今までの日本語に新鮮な息吹を与えたえたり、はたまた新しい意味を加えるなど試行錯誤を重ねていくことで、新しい日本語を創り出したと言えるでしょう。
     ところで昭和時代に目を転じてみると、「英語の持つ意味」と「日本語訳」を比べると少なからず違和感を覚えるなど腹落ちしない幾つかの表現があります。例えば、アメリカ大統領が年頭に連邦議会両院に対し、内外政策に関する報告と1年間の施策方針を「State of the Union Address」として演説しますが、日本では「一般教書演説」と訳されています。ここでの「State」は状況、「Union」はもともと米国独立時の13州を意味しますが、今日では「わが国」を意味するので、この英語を日本語に訳すと「わが国の状況と施策方針演説」ということになります。
     従って、英文から「一般」「教書」の意味をくみ取ることはできませんが、ここで使われている「教書」を、翻訳者が中世の日本で使われた「御教書」の意味を当てたとすれば、あながち誤訳とは言えないかもしれません。翻訳者の真意がどこにあったのか、今では知ることが叶いません。
     慶應義塾大学名誉教授田中茂範さんは「言語は、人間の営みにおける最大のメディアである。過去を回想して語り、今を語り、未来を展望して語ることが可能なのは、言語があるからである。言語は、情報・知識の共有を可能とするメディアである。言語は、人を喜ばせたり、悲しませたりするし、歴史をつくり、学問をつくり、そして法律をつくり、社会をつくる。言語の力についてリストアップすれば枚挙に暇がない」と、当に的を得た指摘をされています。
     21世紀の現在、異なる言語間の誤訳が引き起こした政治的・経済的混乱や、企業間の契約破綻など後を絶ちません。私たちは国際交流の中で異なる国々の言語の背景にある歴史、文化、風習、風土などを理解したうえで、相手の価値観に寄り添いながらコミュニケーションを成立させることこそ喫緊の課題と肝に銘ずることが大切です。



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