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    アーカイブ フェロー・早田 秀人 エッセイ「思索の散歩道」 2025/03/24
    エッセイ「思索の散歩道」
    「暦(こよみ)」の誕生とその歴史
     文明社会が秩序を保つうえで重要な役割を担うインフラの一つとして「暦」があります。日々の生活、さまざまな生産活動の基準となる時間を無視することはできません。
     私たち人間は、採取・狩猟中心の生活から農耕を主体とする社会に移行する過程で、種まき、水やり、収穫などの作業に関り、晴雨、気温、湿度などの気象や雨季・乾季といった季節の移り変わりを生活の中に取り入れてきました。農作業に欠かせない水利や排水、また土壌の涵養など、人々は住む土地の気象や気候を生活のベースとして満足のいく実り多き収穫を目指してきました。為政者は統治する国の民に対し「経世済民」を掲げ統治するために時代の変化に応じて「暦」を利用してきました。
     季節の変化は、地球が太陽の周りを回ること、すなわち公転運動に起因するものであることは周知のとおりですが、一方で、月は新月から満月へ、満月から新月へと「満ち欠け」を繰り返します。また、夜空に輝く数多の星も、神話になぞらえ獅子座、オリオン座など星座として“感情移入”され、人々が活動する上で大事な役割を担ってきました。
     一般社団法人・数理暦学協会によれば、「暦とは、待ち合わせしたり、週末の予定を立てたり、終電を気にしたり・・・。生活の中で日付や時間を気に留めない日はないでしょう。 何月何日と約束すればその日その時に相手に会える。時間というものはとても便利なものです。当たり前と思われるかも知れません。しかし、これは我々が時間を測る共通の物差しを持っているからこそできる事なのです」ということになります。
     加えてさらに、「もし各自の時計やカレンダーに好き勝手な数字がふられていたなら、待ち合わせなすることはできません。長さに対する『メートル』、『インチ』等と同様に、私たちは“時の流れ”に対しても測り方の尺度を持っているのです。それが『暦』です。暦、即ちカレンダーと考えても間違いではないのですが、厳密に定義すると、まず暦ができて時の測り方が定まり、時計やカレンダーが作り出されたといえます」と解説し、さらに「暦の成り立ちについては、暦がなかった時代(カレンダーも時計もない!)、人々はどうやって時の流れや日の移り変わりを数えたのでしょうか? 我々は遥か昔から今も変わらず、ごく身近に規則的かつ正確な周期を持った自然現象を見ることができます。太陽や月、星といった天体運動です。人類は正確な間隔で移り変わるそれらを見て、時の流れを掴んだに違いありません。日が昇って、また沈むことから“1日”という時間単位は極めて自然に認識されたでしょうし、季節の移ろいや夜空の変化から“1月”、“1年”というより長い周期も経験的に捉えられたはずです。 空を見て日を数えること、それが暦となっていったといえるでしょう」としています。
     「暦」には、月の満ち欠けから日を数える太陰暦と地球が太陽の周りを回る公転運動から時間の経過を測る太陽暦とがあります。
     日の出から日没までのサイクルは、一日という「時間単位」を与えてくれますが、太陽は毎日同じように“出ては沈む”ため、数日から数10日という時間を測るには適していません。一方、月の満ち欠けは新月(朔)の状態から上弦、満月(望)、下弦と約7日の間隔で形を変えていき、再び新月に戻るまでの周期は29~30日で、私たちが使う週や月と一致します。 この変化は日を区別するのに便利な物差しとなり、 時計やカレンダーがなかった太古の人々も“月のかたち”で約束事をしていたと考えられます。
     月の満ち欠けは、月が地球の周りを回る公転により生じ周期は約29.5日とされています。月の公転運動を基準にして作った暦が太陰暦です。 まず新月を第1月の1日とし、29日をその月の最終日とします。第2月の1日の月は、正確には半日分だけ遅れた新月ですが、第2月の最終日を30日までとれば、第3月の1日はまた新月に戻ります。2か月ごとに繰り返せば、月の満ち欠けと同期する暦となります。太陰暦の欠点は暦が季節と結びつかないことです。この暦で12カ月数えると354日(29.5×12)しかありません。私たちは約365日で四季がひと巡りすることを知っていますから、太陰暦では1年ごとに約11日だけ季節との“ずれ”が生じてしまうことを理解しています。
     太陰暦の欠点を補うために作り出された暦が太陽暦です。北半球では、東の空から昇った太陽は南の空を通り高度を上げ、やがて一番高い点(南中)に達した後、西の空に沈んでいきます。日本で観測した場合、観測開始した日が夏至ということにすれば、 南中時の高さは第一日目に最も高く、徐々に低くなっていき、影の長さは最も短い状態から少しずつ長くなっていきます。冬至で影の長さは最長となりそれ以後、長さは短くなっていき、366日目に再び最も短い状態に戻ります。
     影の長さは365日のサイクルで繰り返され、季節の変化と同期し、季節の変化に沿った1年の暦を作ることができます。とはいえ、1年が365日の暦では1年の第1日目が最短の影(夏至)になるはずなのですが、5年目にはそうならず、第2日が最短になってしまいます。 これは地球の公転周期が正確には365.25日(365日と1/4日)であることに起因します。
     地球は365日で太陽の周りを正確に一周している訳ではなく、元の位置より1/4日(6時間)分だけ遅れた場所に戻っているのです。そこで、4年目だけを1日増やして366日と制定する閏年を導入することにより5年目の第一日目は元通り影の長さが最短(夏至)となり、季節と“ずれ”のない暦となります。
     「暦」の成り立ちを理解したうえで、その歴史を辿ってみると、紀元前3000年頃の古代エジプトでは、毎年、雨季の頃にナイル川が氾濫し大洪水がもたらされました。雨季に入る前、決まって東の空に明るいシリウス(太陽を除いて全天で最も明るい視覚光度マイナス1.46級の恒星)が輝き始めることから、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を起点として、次に見え出す前の日までを1年365日とし、太陽暦の起源となる「シリウス暦(エジプト暦)」が作られました。シリウス暦の1年は、月の周期を基にした30日による12月と、年の終わる5日間の安息日で成り立っていました。
     メソポタミア文明を築いたバビロニア人は、季節が年間の太陽高度の周期だけではなく、月の満ち欠けの周期によっても移り変わることを発見し、太陰暦の基を作ったといわれています。古代ローマでは、紀元前46年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がエジプト暦をベースに、暦のずれを補正するため4年に一度1日増やす閏年を設け、太陽暦「ユリウス暦」としてヨーロッパに広まりました。
     また、イスラーム信者およびイスラーム教を“国教”とする国で用いられている太陰暦に基づくイスラーム暦(ヒジュラ歴)があります。イスラーム暦は太陽暦と比べると一年につき約11日短く、1か月は、新月が出た日から次の新月の日までの29日か30日になります。イスラーム暦はイスラームの聖なる預言者がメッカからメディナへ移り住んだ西暦622年から始まり、「ヒジュラ」(聖遷)として知られています。1年は354日で、30年に11回の閏年を置き、1年を12カ月に分け断食の第9月(ラマダン)、巡礼の第12月を特に神聖視しています。
     ヨーロッパでは、約1600年の間「ユリウス暦」が使われていましたが、128年で1日狂うことが判明、1582年ローマ法王グレゴリウス13世は、キリスト教の権威を取り戻すため、その間に生じた誤差を修正し、西暦年が4で割り切れる年を閏年とする「グレゴリオ暦」を作りました。このグレゴリオ暦が現在、世界中で使用されていることは周知の通りです。
     中国では、太陰暦をもとに十干十二支で数える暦を基に、季節とのずれを補正する二十四節気を定めた太陰太陽暦を作りました。太陰太陽暦は大河の氾濫の予知、船の安全な航海、農耕に役立ったため、1912年に中華民国が成立するまで使われてきました。
     現在、私たちが使っているグレゴリオ暦は、歴史的に長い時間をかけて体系化されてきたものですが、現在は科学技術の進展により「月」や「地球」の公転周期はここで用いられた値より遥かに高い精度で知られています。
     因みに1日・24時間の時間(地球の1回転)を単純に8万6400分割(60×60×24)して作られていた「秒」の定義は変わり、1967年に世界共通の単位系を管理する国際機関「国際度量衡総会(CGPM:仏; Conference generale des poids et mesures)」は「秒」という時間の単位を「セシウム133原子が91億9263万1770回振動する時間」と定めました。
     地球は毎日同じ速度で自転しているわけでなく、重力や潮汐による摩擦、地表の振動など環境的および物理的な影響により僅かに変化するため、最も精巧で信頼性の高い振り子や水晶時計でさえ、少しだけ不正確になっていました。
     こうして決められた「原子秒」は極めて“正確かつ不変”の時間を定義する筈でしたが「原子秒」が地球の自転に基づく天文学的な秒と一致せず問題化しました。1960年代後半に入ると科学者連は、国際会議により原子時計に基づく世界的な時刻の基準である「協定世界時(UTC:Co-ordinated Universal Time,)」に「うるう秒」を導入することを決定しています。結果、UTCと天文学的な時刻は再び同期するようになり、1972年の「うるう秒」による調整が始まって以来、今日までにUTCに「うるう秒」は27回挿入されています。
     しかし、昨今ではGPSやインターネット、電力送電網などさまざまな産業の間で標準的な時刻の重要性が高まり、長期間にわたりUTCを監視・調整することがトラブルのもとともなり、技術的には“頭痛の種”となっていました。
     こうした経緯を経て、国連の専門機関・国際電気通信連合(ITU:International Telecommunication Union)は、1972年に導入された1日の長さに1秒加える「うるう秒」を原則2035年までに廃止するとした決議案を採択しましたが、最大の理由は「うるう秒」を追加するとコンピューターなどでシステム障害の発生するリスクが高まることにありました。
     わが国の“こよみ”は、人々の営みを月や星といった天体と関わりのある自然の移ろいに委ねられていましたが、「暦」が使われるようになったのは690年頃のこと。中国から伝わった「太陰太陽暦」とされています。太陰太陽暦は、その後ほぼ千年の間、使われてきましたが1685年、同暦の“ずれ”を修正し、初めての和暦「貞亨暦」が作られました。
     国立天文台天文情報センター歴計算室HPには「2023年6月、国立天文台所蔵の『星学手簡』が国の重要文化財に指定されました。わが国は明治維新後1873年からグレゴリオ暦(太陽暦)を採用しましたが、それ以前は旧暦を用いていました。旧暦とは天保暦のことを指しますが、現在では、改暦以前の和暦全般やその後の天保暦に倣った太陰太陽暦をもひとまとめにして「旧暦」と呼ばれています。日本の暦の歴史は、始まりが判然としませんが『日本書紀』巻19には、欽明天皇十四年(553)六月、百済に医博士・易博士・暦博士(こよみのはかせ)等の交代や「暦本こよみのためし」の送付を依頼する記述があり、江戸時代以前は大陸よりもたらされた暦を使用していた」とあります。
     作家・冲方丁の小説「天地明察」(角川文庫)によると主人公・渋川春海(安井算哲)による“貞享暦(じょうきょうれき)”の登場により、日本は独自の「暦の歴史」を編み始めることになりますが、貞享暦は貞享2年に採用された暦で、中国の“授時暦(じゅじれき)”に倣ってはいるものの、日本と中国の経度差や冬至と近日点の“ずれ”を考慮した初めての日本独自の暦です。
     貞享暦誕生の経緯は「天地明察」にも明らかですが“誕生”に関わった人々の“人間ドラマ”は映画化されるほど感銘深いものがあり、主人公の“天才”と“行動力”、“あくなき探求心”数学の天才・関孝和との出会いとその後の“人脈づくり”など幸運を奇貨とする“人間力”を活写してします。
     改暦を成功させた安井算哲は暦を将軍徳川綱吉に献上、12月には司天官(天文方)に任じられ、天文方を中心とした新たな編暦体制が確立しました。
     その後、安倍土御門泰邦らによる「宝暦暦(ほうりゃくれき)」への改暦が見られますが、基本となる理論は「貞享暦」と同じで、間違った補正値があったほか宝暦十三年九月(1763年)の日食が記載されていなかったなど失態もあり「修正宝暦暦」への改暦が行われたものの根本的な“改善”はなされませんでした。
     「星学手簡」では、この後「寛政暦」へ至る経緯やその後の流れについて同暦を編纂した高橋至時と間重富の間で取り交わされた書状に垣間見ることができます。
     「寛政暦」以降は、至時の次男である渋川景佑らにより編纂された「天保暦」を用いることとなり、明治五年十二月の太陽暦への改暦まで使用されました。なお「星学手簡」は景佑によりまとめられたと言われており、景佑は「天保暦」の編纂にとどまらず多くの功績を残しています」。
     明治6年、政府は西洋に合わせる形で、「明治5年12月3日をもって、明治6年1月1日とする」という、太陰太陽暦から太陽暦への変更を断行しました。その年がたまたま旧暦で閏年に当たり、太陽暦の採用で給与を13カ月分支払う必要が生じたため、政府は正月を1カ月早くするという奇策ともいえる非常手段を講じました。多くの市民にとっては寝耳に水で、新政府に対する不満が噴出するという裏話も伝えられています。
     福沢諭吉は改暦にあたり、政府の布告があまりに簡単なので、動揺する市民の人心を得るため、太陽暦がいかに太陰太陽暦より優れているかを説き、啓蒙書「改暦弁」を出版、同書がベストセラーになりました。
     「暦」は私たちの日常生活と密接に関係していることは言うまでもありませんが、時の為政者がその領地における農作物の収穫や庶民の“稼ぎ”から税金として上納させる体制維持など利害が絡み合いながらも「暦」は権力者が民を統治する“切り札”として、改暦を繰り返し発展してきました。
     デジタル化の進展や人間活動が宇宙空間にまで広がりを見せている昨今、時間と暦の精緻化による「時間インフラ」として、その機能の重要性はますます高くなっています。
     ところで、「暦」は、現代社会の合理化、効率化を促す上で不可欠である一方、生活に密着した文化としての側面があります。わが国では古来より、太陽と月の運行を日常生活に結び付けてきました。月の名称は味わい深いものです。
     立春付近で、太陽と月の仕組みを結びつけ、「睦月」、時がたち春半ばになると春の“気”がさらに来ていると感じて「如月」、晩春になって気が充実“いよいよ栄えること”を願って「弥生」、夏に向かって身も心も弾み、うずきはじめてくるので「卯月」、神様に豊作を祈り、稲を表わす「皐月」、田んぼでは水が無くなるほど水をはるので「水無月」、秋になると愛する人へ文をしたためたくなる「文月」、さらに葉が色づく「葉月」、夜が長くなり始める「長月」、また10月に入ると神様出雲大社詣で皆いなくなってしまうので「神無月」、霜が降りはじめ農作業はもうできなくなると「霜月」、“師”が仕事に振り回され、走り回るから「師走」。これら「月」に個性を与えた呼称により生活と密着した季節感が彷彿されます。
     月の動きが生活の一部となり、万葉集・古今集などには月を愛で「うたごころ」を育んだ平安時代、新月や満月を避けて行われた地域ごとの多彩な祭りなど、太陽と月の動きを同時に観察し生活に取り入れてきました。
     太陽が黄道上で春分点を出てから再び春分点に戻るまでの1年を24等分し、約15日ごとに区分した24節気。それぞれの節気は「立春」「雨水」「啓蟄」など天候や生き物の様子で表され、季節が生活と結び付けられていました。さらに、24節気の一気(約15日)ごとに初候、2候、3候と3等分し1年を72に分けた72候があります。俳句になくてはならない季語は時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物などに分類され「季寄せ」としてまとめられています。太陽と月と地球の天体の動きから作られた「暦」が庶民の生活に根付き結晶したのが日本の「こよみ文化」と言ってよいと思います。



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