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アーカイブ 主席研究員・櫻井 元 エッセイ 2025/07/16
パンデミックに向き合った日々――その記憶と記録(1)
横浜市内で先日、映画『フロントライン』を観た。5年前の2020年2月3日、新型コロナの感染者を乗せて横浜へ入港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の船内を「最前線=フロントライン」とし、乗客・乗員を救うために送り込まれた医療スタッフを軸に、後方支援に当たる対策本部とのやりとりを含めて、リアルな人間模様が描かれる。
映画のパンフレットや新聞記事を読んだが、企画・脚本・プロデュースの増本淳さんは、これまでにも「白い巨塔」(2003~04年)、「救命病棟24時」(2005年)「Dr.コトー診療所」(2006年)、「コード・ブルー ~ ドクター・ヘリ緊急救命」(2008年~)などの医療ドラマを手掛けてきた。ほかのドラマの撮影中に、ダイヤモンド・プリンセス号の船内の様子を聴く機会があり、「この事実を伝えたい」と思って、多くの関係者に取材を重ね、300㌻を超えるメモを残した。脚本の原案ともいえるメモに目を通した小栗旬さんが「これは映画にすべきでしょう」と感想を述べ、最終的に主演を引き受けることになったという。
小栗さんが演じた神奈川DMAT(災害派遣医療チーム)調整本部長や、久々に小栗さんと共演した窪塚洋介さんのDMAT事務局次長は、ともにモデルとなった医師本人が映画制作の監修に加わり、一部の演技指導にもかかわった。また松坂桃李さんは、時に医療チームと対峙する厚生労働省の医系技官ら複数のモデルを代表する形で、官僚役を演じた。
小栗さん、窪塚さん、松坂さん、池松壮亮さん(DMAT医師)、森七菜さん(フロント業務の乗員)、桜井ユキさん(放送記者)……という面々にずっとマスクをつけさせては、エンターテインメント作品として観てもらえないので、マスクを外している時間を長くせざるを得なかったことなど、制作・演出上の苦労はあっただろう。だが、関根光才監督が「過剰な演出をしないことを自分の中でのルールにしていた」と振り返り、小栗さんが朝日新聞の取材に「映画の中で起きていることが十分ドラマチックだから、俳優の僕らがあえてドラマチックさを芝居で付け足さなくていいと考えました」と語ったように、ドキュメンタリーの要素がにじむ映画に仕上がっている。
5ヵ月さかのぼる。横浜市の中心街にある「放送ライブラリ―」で今年2月、恒例となった「震災を伝える・記録する・考える ~ 記憶を記録に、教訓をつなぐ」をテーマとする「番組を視聴する会」に参加した。2011年3月の震災当時、勤務していた仙台の東日本放送(KHB)の番組が2本、上映作品10本の中に選ばれていたからだ。
番組に描かれたのは、東日本大震災だけではない。阪神大震災をはじめ中越、熊本、北海道などの地震の被害状況も映像として残されている。イベント紹介のチラシには、もちろん昨年1月の能登半島地震についても言及された。
誤解を恐れずに言えば、震災や津波は、そのまま映像として記録しやすい。プロのカメラマンだけでなく、今では市民がスマートフォンを使って動画を投稿することもできる(最近はフェイクのリスクもある)。一方、コロナ禍や原発災害は、記者やカメラマンが「現場」に迫ることもできず、映像に語らせることができない。
映画『フロントライン』や、原発事故の場合、たとえば『Fukushima 50』(若松節郎監督)は、こうした映像記録の空白をいささかでも埋めてくれるのではないか。記憶を呼び覚ますきっかけとなるのではないか。
一挙に100年以上さかのぼる。1919(大正8)年12月13日、横浜港に米国から東洋汽船の「サイベリア丸」が帰ってきた。この船には、ワシントンで開かれた国際労働会議に出席していた大使、労使の代表らが乗っていたが、同時にインフルエンザ患者が乗船していたことから、3等船客に80人の患者を出し、7人が航海中に死亡、18人は下船後、ただちに入院した――。
速水融・慶應義塾大学名誉教授(故人、経済史・歴史人口学)の著書『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ ~ 人類とウイルスの第1次世界戦争』(藤原書店、2006年)には、神奈川県の地方紙『横浜貿易新報』に掲載されたインフルエンザ(「スペイン風邪」と呼ばれることも多い)の感染拡大の実態も描かれた。
サイベリア丸は「流行後期」の事例であり、インフルエンザの「先ぶれ」は、1918年5月、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生したことではないか、と速水さんは推測した。いずれも現場は、神奈川県。そして、同県には『大正7・8年、8・9年 流行性感冒流行誌』という都道府県レベルでは唯一の報告書が残されている、とも指摘している。
映画『フロントライン』は、約3700人いた乗客・乗員のすべてが、船長をしんがりとして下船した3月1日までのドラマを描いた(ネタバレになってすみません)。それまでの感染者は700人余り。船内で死亡した人はいなかったが、下船して搬送された医療機関で4人が亡くなった。
5年前のことなのに、どこまで覚えているかと自問すると、覚束ない。映画をきっかけとして、記憶に残っている人たちの言葉を、「点描風」ではあるが、書き残してみたい。
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