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アーカイブ 研究員・豊田 滋通 歴史 2024/12/12
NHK大河ドラマは1960年代以降、当時の世相をも反映する国民的ドラマとして定着してきたが、近年は戦国武将ものが多く、いささか辟易していた。しかし2024年は平安時代が舞台、しかも主人公は紫式部という謎多き女性とあって、年初から期待指数が上昇。夏場、源氏物語の執筆が始まったあたりから気分はさらに高揚し、アッという間に師走に入って遂に終幕を迎えることになった。(…年末年始「まひろロス」にならないか心配だ)
このドラマは、源氏物語誕生の秘話を縦糸に、吉高由里子が演じる主人公まひろ(藤式部・紫式部)と柄本祐が演じる左大臣・藤原道長の秘められた恋や帝位をめぐる宮中の暗闘、貴族たちのきらびやかな暮らしと没落の悲劇などを極彩色で描いている。
大石静の巧みな脚本で、毎回、物語の世界に惹き込まれてしまう。また、帝と皇后や宮中を行き交う公卿、女官たちの華麗な衣装をはじめ、綿密に考証・再現されたセットと宮中行事の豪華さも圧巻。ドラマのメーキング番組で話題になった土御門殿(道長の居館)での「曲水の宴」の撮影シーンには、思わず身を乗り出してしまった。さぞかし、カネと手間がかかっただろうと、いらぬ心配をしてしまう。(…これだから平安時代をテーマにしたドラマが少ないはずだ)
さらに、妖艶なタイトルバックで流れるNHK交響楽団と反田恭平のピアノによるテーマなど、冬野ユミ作曲の音楽がドラマの世界をさらに奥深いものにしている。各回の要所で流れる音楽は、スケールの大きな管弦楽をはじめ、抒情豊かなバラード風や軽快なジャズ、バッハを思わせるシブいモノローグなど多種多様。いわゆる「劇伴」の域を超え、サントラCDで音楽だけを聴いていても飽きることがない。
というわけで、歴代大河ドラマの中でも久々に高得点を付けてしまったこのドラマだが、終盤に来て舞台が京の都から西国・大宰府へと移り、まひろの足が九州に入ったことでこの一文を書いてみようと思った。
きっかけは、第46回でテーマとなった「刀伊の入寇」である。
刀伊の入寇は、平安時代末期の寛仁3(1019)年3月から4月にかけ、朝鮮半島から大船団で押し寄せた賊徒が、離島の長崎県対馬や壱岐、玄界灘沿岸の博多周辺などに侵攻した事件。刀伊は高麗語で蛮人を意味する東夷に日本文字を当てたものともいわれ、その正体は朝鮮半島北方の旧満州に住んでいた東女真族である。ツングース系民族の女真は、後代に中国本土に進出し、金(1115~1234年)や清(1636~1912年)などの王朝を樹立することになる。
刀伊の入寇は、平安時代では「最大の対外危機」とされ、歴史教科書にも必ず載ってはいるが、鎌倉時代の元寇(1274年の文永の役・1281年の弘安の役)に比べて知名度は極端に低く、直接侵攻を受けた北部九州の住民でさえ「トイって何?」という反応が大半だ。歴史ドラマで本格的に取り上げられたのも、おそらく『光る君へ』が初めてで、長崎や福岡の県民もあらためて平安時代の重大事件を知ったという人が多かっただろう。
そこで、ドラマの登場人物の一人、大納言・藤原実資=ドラマでは秋山竜次が好演=が残した日記『小右記』などの史料をもとに、まず事件の概要をたどってみたい。
小右記は、実資が21歳だった貞元2(977)年から84歳の長久元(1040)年まで、63年間に及ぶ日記。有職故実に詳しい学識者とされた実資だけに、当時の政務や宮中の儀式などが詳細に記録されているという。
刀伊の入寇に関する記事が登場するのは、太政大臣・摂政にまで昇りつめた道長が病を得て出家(寛仁3年3月21日)した直後の4月17日付である。戌の刻(午後7~9時ごろ)、惟円師が持ってきた大宰権帥・藤原隆家(ドラマでは竜星涼が熱演)の4月7日付書状を記載している。その第1報の内容は以下のようなものだった。
刀伊国の者が五十余艘で対馬に来着し、殺人や放火を行っています。要害を警護し、兵船を遣わします。大宰府は飛駅言上します。
これによると、大宰府からの急報が、官道の駅家を早馬で乗り継いで京の都まで10日ほどかかったことがわかる。これが、当時最速の「通信メディア」だったのだろう。
小右記には、その後の続報も記載されているが、諸史料をもとに事件発生から終息までを要約すると以下のとおりである。
3月28日 刀伊人が対馬に侵入。働き手となりそうな男女を中心に地元住民を拉致し、牛馬を食料として食べた。賊徒は老人、子どもは容赦なく斬り捨てたといわれ、捕虜をとらえるのが主目的だったともされる。その後、刀伊は壱岐島を襲い、壱岐守・藤原理忠らが防戦に当たったが理忠は討ち死にした。
4月7日 壱岐島から逃げた常覚という僧侶が大宰府にたどり着いて惨状を報告。賊徒は、既に筑前国怡土郡(現在の糸島半島周辺)の海岸に襲来し、志摩郡や早良郡の一帯でも略奪を続けた。
4月8日 賊徒は、那珂郡能古島に移って博多に迫った。隆家率いる大宰府の軍勢は博多の警護所を拠点として防戦。9日にかけて博多津周辺で激戦となった。1艘の船に50~60人も乗る刀伊は、集団戦で攻め立てた。人ごとに盾を持ち、前陣は鉾、次陣は大刀で戦い、長さ1尺余りの短く猛威をふるう弓矢を使った。しかし、平為賢ら大宰府勢が鏑矢を撃つと、賊はその音に脅えて逃げたという。賊船の中には、拉致された対馬・壱岐の島人のほか高麗国人もいた。賊徒は強い抵抗に耐え切れず、能古島に引き上げた。その後、2日間は風波が強く、双方とも攻めあぐねた。
4月11日 賊徒は早良郡から志摩郡船越津へと移り、大宰府側は12日にかけ兵船38艘で精兵を送り込んで撃退した。
4月13日 賊徒は、肥前国松浦郡でも地元の軍勢から激しい攻撃を受け、九州をあとに遁走した。
以上が、刀伊の襲来から撃退までのあらすじだが、大宰権帥・隆家の第1報が都に届いた4月17日には、既に事態は終息していたことが分かる。小右記によると、この間に筑前(志摩・怡土・早良3郡と能古島)の被害は、殺害された者189人、連れ去られた696人、牛馬200頭だったという。
さて、ここからは『光る君へ』のドラマで刀伊の入寇を振り返りながら、事件ゆかりの地をたどってみることにしよう。
ドラマ第46回(2024年12月1日放送)の冒頭は、商人や官人らが行き交う大宰府の雑踏の中で、都から旅して来たまひろ(紫式部)と松下洸平演じる周明が20年ぶりの再会を果たすシーンから始まる。かつて越前でまひろと出会った周明は、日本人を母とし、宋人を父に持つ薬師(=医師)見習い兼通詞(=通訳)である。
「亡き夫が勤めていた大宰府を見てみたい」と西下してきたまひろは、大宰府政庁で隆家や娘・賢子の想い人である武者の双寿丸(伊藤健太郎)らとも再会する。
宋人の薬師に眼病を治してもらうため志願して大宰府に赴任した隆家は「目が見えるようになり、違うものが見えてきた。内裏の狭い世界で位を争っていた日々を実にくだらぬと思うようになった。(平)為賢は武者だが、信じるに足る仲間だ」と心情を吐露する。「ところで、道長様が出家されたことを知っておるか」と問う隆家に、驚愕するまひろ。「栄華を極めても病には勝てぬ。それが人の宿命だ」などと語る隆家の言葉は、公家の世の終焉が近づいていることを予感しているかのようだ。
ドラマの冒頭で舞台となった大宰府は、遠の朝廷とも呼ばれた内政・外交の西の拠点。福岡県太宰府市には都府楼と呼ばれる大宰府政庁の官衙(=役所)跡があり、建物や回廊の礎石が残り、「都督府古址」の石碑が立っている。
大宰府が最初に古記録に登場するのは7世紀。日本書紀・推古17(607)年の条に、「筑紫大宰」が百済僧の肥後国葦北漂着を報告したという記述があり、これがのちの大宰府の呼称につながったとされる。
天智2(663)年には、百済救援のため朝鮮半島に出兵した倭王権の水軍が、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗。唐と新羅の侵攻を恐れた倭王権は、博多湾側からの進撃に備えて水城と呼ばれる長大な濠を備えた土塁を構築。水城の背後の四王寺山に大野城、現在の佐賀県境にある基山に基肄城などの朝鮮式山城をつくり、烽火(=のろし台)という「緊急通信施設」を随所に置いて有事に備えた。その後、大宝元(701)年の大宝令で正式に大宰府が発足したとされている。
宿所で「そろそろ大宰府を発とうと思う。昔、仲良くした友が亡くなり辞世の歌を残した松浦を見に行きたい」と言うまひろ。周明は「松浦に行くなら船がよい。船越津まで送って行こう」と答える。
「まつら」とは、邪馬台国時代(3世紀)の魏志倭人伝に記された末盧国ゆかりの地。律令時代の松浦県・松浦郡で、現在の佐賀県唐津市や唐津平野の周辺地域に当たる。当地の鏡山には、万葉歌に詠われた松浦佐用姫の悲恋物語も伝わる。
一方、筑前国志摩郡の船越津は現在の糸島半島西端に位置する福岡県糸島市(旧糸島郡志摩町)の船越漁港周辺の海域(船越湾)。岬状に突き出た志摩船越は陸繋砂洲でつながっており、その昔、砂洲上を船を曳いて越したためこの名が付いたという。旧怡土郡と志摩郡は、末盧と同じく魏志倭人伝に登場する弥生時代の伊都国の領域。この周辺には、伊都国の外港として朝鮮半島との交易を担った御床松原遺跡など重要遺跡が点在している。
現在の船越漁港は、焼き牡蠣のメッカとして人気。冬場の週末ともなれば、ずらり並んだカキ小屋に県内各地の車が殺到する。焼き牡蠣でしか船越を知らなかった福岡県民は、ドラマで刀伊の入寇シーンを見て「船越の歴史」を再認識したはずだ。
ドラマでは、壱岐島から命からがら逃げてきた僧侶の常覚が、大宰府政庁で島の惨状を訴えるシーンがあり、賊徒が異国人・刀伊の集団であることが明らかになる。隆家は「博多を攻められてはいかん」と、近隣の国守に出兵を命じる急使を派遣し、自ら軍勢を率いて博多警護所に出陣。ここで警護所の役人から、賊徒が能古島に向かったことを知らされる。
やがて能古島から刀伊の船団が博多の浜に上陸し、合戦の火ぶたが切られた。剽悍な賊は小型の弓を使って戦ったが、大宰府の将兵がヒョーと放った鏑矢の音に恐れをなして退去する場面も…。ここは、小右記などが伝える史実のとおりである。
賊は一旦、能古島に退却。大宰府軍には、財部弘延ら在地の豪族らも参戦し、態勢の立て直しが図られる。ただ、大宰府軍には軍船がなく、海上を追撃できないのが弱み。そこで隆家が軍船の調達を命じ、弘延が「承知しました。主船司に行って船をかき集めましょう」と応じる。
刀伊が集結し拠点とした博多湾の能古島は、古来より残島、能許島、能巨島、能解島、乃古島などとして文献に登場する。万葉歌にもたびたび詠まれた景勝地で、島北端の也良岬にはかつて防人が配置されていた。
能古島の対岸に位置する志賀島は、国宝「漢委奴国王」金印が出土したことで有名。志賀島の金印公園近く(棚ヶ浜)と能古島の北端には、也良岬や防人を詠った万葉歌碑が立っている。
沖つ鳥 鴨といふ舟は也良の崎廻みて 漕ぎ来と 聞こえ来ぬかも(志賀島9号歌碑)
(沖の水鳥よ、お前と同じ鴨という名の舟は、也良崎を巡って漕いできたと知らせないものかなあ)
沖つ鳥 鴨云ふ船の帰り来ば 也良の崎守 早く告げこそ(能古島也良岬の歌碑)
(鴨という名の舟が帰ってきたら、也良の防人よ、すぐに知らせてくれ)
山上憶良の作と伝わるこれらの歌は、志賀の白水郎(=海人)・荒雄の遭難を悼んで詠んだものである。神亀年間(724~729年)、玄界灘沿岸にある宗像郡の宗形部津麻呂は、大宰府の命で対馬に食糧を運ぶことになった。しかし、老齢で役目を果たせず、志賀島の荒雄に代役を頼んだ。荒雄は「わしらは郡は違うが、同じように舟での航海は久しい。志は兄弟より篤く、たとえ殉死するとしても断ったりしようか」と二つ返事で引き受けた。荒雄は肥前国松浦県美禰良久=現在の長崎県五島福江島の三井楽町ともいう=から出航したが、途中で暴風に遭い、海中に没したという。筑前国守だった山上憶良は、ほかにも荒雄の妻子を憐れんで詠んだ歌を残しており、志賀島北端の勝馬に歌碑がある。
能古島は現在、四季折々の花で人気がある「のこのしまアイランドパーク(花畑などの自然公園)」を中心に、行楽地として人気がある。福岡市西区姪浜の「のこ渡船場」(姪浜旅客待合所)から市営渡船(所要10分)で渡れる身近な憩いの場。この観光の島が、かつて防衛最前線の防人の島で、刀伊の入寇の「現場」であったことは、今では福岡市民にもあまり知られていない。
一方、ドラマの中で在地豪族の財部弘延が「船を集めましょう」と言った「主船司」は、大宰府の機構に「主船」という官職があり、船のことを取り扱う組織機関のこと。その役所が置かれたのは、現在の福岡市西区周船寺であると言われている。
さて、ドラマの中の「刀伊の入寇」は舞台を船越津に移し、いよいよ合戦のクライマックス。逃げ惑う村人に混じって、周明とまひろもこの騒動に巻き込まれてしまう。賊徒の攻撃から、まひろをかばった周明は、自分が矢を受けてしまい…。ここで第46回が終了。
第47回(12月8日放送)の「哀しくとも」は、刀伊の騒動の後日談と、まひろの都への帰還を描く。
4月17日の「刀伊襲来」の第1報を受け、未曾有の国難に「兵を送るべきか」と右往左往の評定を続けていた公卿たちは、その後「刀伊退散」の知らせを受けて急速に関心を失って行った。
6月末、公卿たちが招集され、勲功者の行賞について議論した。道長の側近である中納言・藤原行成(渡辺大知)は「刀伊を撃退したのは4月13日。朝廷が刀伊襲来を知ったのは17日で、追討を命じたのは18日。よって13日のことは朝廷に関わりないこと」と行賞無用論を主張。同じく大納言・藤原公任(町田啓太)も「朝廷の命無き戦で、前例を見ても行賞に価しない」と同調した。陣頭に立って刀伊を撃退した大宰権帥・藤原隆家は道長の政敵の一人で、行成と公任はそこを忖度したようだ。
これに対し、大納言・藤原実資は烈火のごとく怒り「都で胡坐をかいていた我らが、命をかけた彼らの働きを軽んじてはならぬ」と一喝した。史実として、実資は6月29日付の日記(小右記)に「若し賞進すること無くんば、向後の事、士を進むること無かるべきか(賞を与えねば、この先、有事が起こった時に奮戦するものはいなくなる)」と訴えたことを書き残している。
結局、7月13日に除目(=大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式)があり、褒賞を得たのは壱岐守と対馬守に任ぜられた大宰府の役人2人だけ。最前線で指揮した隆家には、何の処遇もなかった。
ドラマの中では、道長邸を訪ねた実資が「平将門の乱以降、朝廷は武力を持たなくなりましたが、それから80年が経ち、まさか異国の賊に襲われるとは…。もはや前例にこだわっていては、政はできませぬ」と慨嘆する場面がある。実資の嘆きは、やがて来る公家社会の凋落と武士の台頭を予言するかのようでもある。
実は、紫式部が亡くなった年は現在も不明で、刀伊の入寇(寛仁3年)より前であったという説もある。お墓の所在地も伝承の範囲内で確定していない。紫式部の晩年は多くの謎に包まれていて、西国へ旅立ったというのはドラマの創作である。とはいえ、このドラマで紹介されたことで「刀伊の入寇」の知名度はグンと上った。この歴史的事件が地元九州で話題になることもほとんど無かっただけに、郷土の歴史を見直す良い機会になったのではないかと思う。
【 筆者略歴 】 豊田滋通1953年・福岡市生まれ。1975年に西日本新聞社に入社、主に行政・政治分野を担当。東京支社編集長、論説委員長、監査役などを歴任。2018年から季刊「邪馬台国」などを発行する福岡市の出版社「梓書院」のエグゼクティブアドバイザー/ライター。西日本新聞書評欄で歴史・古代史関係書籍の書評を担当中。著書に『よもやま邪馬台国~邪馬台国からはじめる教養としての古代史入門』(2023年・梓書院刊)など。日本メディア学会会員。
【 主な参考文献 】 ・小右記(藤原実資・倉本一宏編・角川文庫) ・古代の大宰府(倉住靖彦著・吉川弘文館) ・遠の朝廷 大宰府(杉原敏之著・新泉社シリーズ「遺跡を学ぶ」) ・武者から武士へ~兵乱が生んだ新社会集団(森公章著・吉川弘文館) ・福岡歴史探訪西区編(柳猛直著・海鳥社) ・福岡県史第1巻上冊(昭和37年) ・太宰府小史(西高辻信貞編著・葦書房) ・福岡県地名考~市町村名の由来・語源(梅林孝雄著・海鳥社) ・悠久の歴史と万葉のロマン志賀島・西戸崎(東区歴史ガイドボランティア連絡会編・ 福岡市東区総務部生涯学習推進課) ・地形と歴史から探る福岡(石村智著・MdN新書) ・角川日本地名大辞典40福岡県(KADOKAWA)
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