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アーカイブ 先人の知恵・他山の石 IT業界 2022/05/19 内海 善雄
第1回IP化に乗り遅れた超名門通信機メーカー May 19 2022
日本の代表的なIT企業であるF社の会長とは親しかったので、帰国の際、何度か表敬訪問をした。経営トップとしては珍しく、会長は技術的なITUの活動に関心を持っておられ、自らITU-T(標準化部門)やITU-R(電波部門)の新しい動きを質問されることがよくあった。多分に専門的なことなので、私にはとても回答ができないことばかりだった。技術屋出身の経営者として、常に新しい技術の動向をフォローされていることは、はた目にもよく分かった。その会長が、ある時、「IP技術に傾注しなかったのは大失敗だった。」としみじみと語ったことがある。これほど熱心に新技術の動向を把握されていた会長でも、IT分野の大きな波に乗ることは大変難しかったのである。ましてや技術動向に関心のない者は、波の間に間に消えることは必定だ。
1999年、ITU事務総局長としてジュネーブに赴任して、日本では気が付いていなかったことがいくつかある。今振り返るとそれは現在の日本のIT産業、ひいては日本経済衰退の兆候だったことが分かる。その第一が、IP技術の凄さである。
赴任当初、シスコ社の幹部に何度か会ったが、日本では聞いたこともない会社であった。調べてみるとちょうど10年前に創業し、IPルーターを作っている会社だとのこと。そして、なんと世界の市場をほぼ独占していると知った。郵政省で通信行政に従事し、いわば専門家の端くれだった者がこの様の無知ぶりだった。日本の世間一般では、まだインターネットもあまり分からず、ましてやルーターという機器やその役割は、専門家以外は誰も知らなかったと思う。世の中の一般的な認識は、日本は電子交換機や大型コンピューターで米国企業に負けずに頑張り、半導体でも世界トップの電子機器産業の先進国というイメージだったと思う。そして、高度情報社会を建設するのだと、郵政省と通産省が主導権争いをして覇を競っていた。その真ん中に私はいたのだった。
当時は、よく各種の情報化に関するデーターが発表され、PCの普及率は米国や韓国よりは低いが、iモード(i-mode)により、インターネットが世界で一番個人レベルまで普及していると自慢する記事を見ていた。更に、iモードを世界に売るのだとNTTドコモは意気盛んだった。日本の情報のみで洗脳された頭では、世界で最も便利なiモードの技術を世界に普及させことは、日本IT産業にとってはまたとないチャンスだと映る。そして政府もその後押しをしたのである。
しかし、世界の情報が集まっているITUから見ると、違って見えた。携帯電話の日本規格は日本のみで普及、それに引き換え、ヨーロッパ規格のGSMは世界に普及していて、GSMがつながらないのは日本ぐらいである。そして、GSMを製造するノキアやエリクソンが世界を制覇している。一社で日本メーカーの10倍ぐらい製造販売しているのだからかなうはずがない。
日本では光ファイバーを各家庭までにとキャンペーンをしているが、世界では既存の電話線を利用したADSL方式が一般的であり、韓国や米国では家庭のPCが高速回線につながり、インターネットはPCで使用するのが常識だった。日本は、インターネットの普及で決して先頭集団を走ってはいなかった。
しかも、格安のルーターにより、NTTのような既存の大企業ではなく、ベンチャー企業によりIPネットワークの建設が急速に進んでいた。網の核となる交換機は、大型の電子交換機ではなく、小型で安いルーターと呼ばれるもの。既存の通信事業者から回線さえ借りれば、誰でもIPサービス(プロバイダー)を行うことができる。そのルーターを独占的に販売しているのがシスコ社だった。
このような状況なら、世界の個人レベルのインターネットの普及は、日本だけでしか使われてない規格の携帯電話上で開発されたiモード技術をいくら勧めても、選ばれるとはとても考えられない。各国ともADSL回線と格安業者のサービス(プロバイダー)によって家庭のPCを接続することになるだろうと予想が付く。
更に、当時出現したIP電話が通信業界では大問題であった。IP電話だと長距離回線をショートカットでき長距電話や国際電話が、革命的にコストダウンできる。しかし、世界中の既存の電話会社や政府はIP電話を違法として排斥した。だが、技術革新の成果の利用を法律で禁止することなど長続きできる訳がない。どんどん違法IP電話のサービスを提供する者が現れ、また、私もITU事務総局長としても、格安のIP電話を普及すべく各国の政策調整に努力した。そして、2001年、ITU開催のWTPF(世界電気通信ポリシーフォーラム)で、IP電話を正式に利用させる世界合意を得ることに成功した。人類に及ぼした影響を考えると、この合意は、私の任期中、最大の功績であったと自負できると思う。
こうなると、長距離や国際電話は、IPネットワーク利用の格安サービス、そして大型電子交換機使用の既存の電話網は、やがて格安のルーターを使ったIPネットワークに置き換わっていくことは明らかである。ならば、通信機器メーカーは、ルーターなどのIP機器を取り扱わなければ、売れるものは無くなる。冒頭、F社の会長がため息をついたのは、ちょうどこの頃だっただろうか。
さて、なぜF社はIP化の波に乗れなかったのだろうか? ご承知の通り、ため息をついたのはF社の会長だけではない。ATTから分離したルーセント・テクノロジーやドイツのジーメンス、フランスのアルカテルなど超一流世界通信機器メーカーも、カナダのノーザンテレコム(ノーテル)を例外として、IP化の波に乗れず、輝かしい社史を閉じるに至っている。これら超名門企業がIP化の波に乗れなかったのには共通した理由がある。その理由を、再認識することこそ、激しいIT業界の変化の中で生き延びていくヒントを得ることではないだろうか。(次回に続く)
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