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アーカイブ やぶ睨み「ネット社会」論Ⅱ 2021/07/09 内海 善雄
こんなバカげたことが行われるこの国は、完全に狂っていると思う。なぜそんなことになったのか? 理由の一つに、権力者の資質があげられよう。彼らにとっては、国民の健康や生命、そして国の将来よりも、自分の地位や権力の維持の方が大事なのだ。オリンピックの開催と中止のどちらが、国民のため、国の将来のためになるかという判断ではなく、どちらが自分たちの権力や利益を確保するために有利かということになっているのではないか。
西村宮内庁長官から、「天皇陛下が東京大会の開催が感染拡大につながるのではないかと強く懸念されていると拝察する」との発言があった。政府は即座に「長官の個人的見解だ」と無視した。そしてメディアに出た議論は、もっぱら天皇のあり方に関する憲法論議だった。
天皇が、長官を通して時局に関する考えを述べるのは、象徴としての役割のみを持つとする憲法に反する。しかし、天皇は発言してないから問題ない。このような問題を長官が「拝察する」と発言するのは長官の越権行為である。だが、天皇の同意なくして長官が発言するはずがない。等々のコメントであった。しかしながら、推察された天皇のご懸念自体は、一切議論されなかった。オリンピックを開催しようとする現政権にとっては、思うつぼの好都合な議論展開となった。
私は、平成天皇や皇太子時代の令和天皇と親しくお話しや同じテーブルで会食する名誉を拝受したことがある。その時に強く感じたことは、お二人とも無私の方だということであった。そして、自分がまるで鏡の前にいるような気持になった。生まれたときから天皇になることが決まっており、俗人のように「俺が、俺が、」と行動する必要がない。ましてや地位の維持のために策謀をめぐらすこともない。そんな方のお気持ちや考え方は、実に純粋で我欲という泥にまみれた俗人のものとは全く次元の異なるものであった。
西村長官が推察した天皇のお気持ちとは、オリンピックの開催でコロナがさらに蔓延することを純粋に心配され、なぜ、オリンピックを強引に開催するのだろうかという素朴な疑問だと思う。そしてこの天皇のお気持ちは、大多数の国民の気持ちだと思う。まさに、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」となっているのだ。
オリンピック利権にまみれたマスコミに、純粋な国民の疑問についての報道や解説を期待すること自体が無理なことは分かっている。しかし、何とかならないものだろうか。唯一期待できるのは、ネットの世界のミニコミの発展だけだというのも悲しいことである。
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